創竜伝04 四兄弟脱出行 田中芳樹 ------------------------------------------------------- (テキスト中に現れる記号について) 《》:ルビ (例)遥《はる》か未来に |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)単身|赴《ふ》任《にん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] [#途中に出てくる天野版の挿絵は精神的ダメージが大きいと思われるのでコメントにしました] [#挿絵を復活する場合は、『[#天野版挿絵 』と『]』を削除のこと] [#古い中国の漢字で、正しく表示できない文字がたくさん出てくる事をご承知おきください] [#最後のおまけの座談会の所、なんとか文字数制限できないものかと考えますがダメですね] ------------------------------------------------------- [#天野版挿絵 ] 目次 第一章 竜王たちと夕食を 第二章 われらが不満の夏 第三章 逃げるときでも胸を張れ 第四章 ウォーターフロント遁走曲《フーガ》 第五章 竜王on覇王 第六章 竜人戦線 第七章 ドラゴン・ミラージュ 第ハ章 ドラゴン・フライト 第九章 ドラゴン・アタック 第十章 水晶宮の夢   第三回竜堂兄弟座談会 [#改ページ] 『創竜伝4〈四兄弟《ドラゴン》脱出行〉』——おもな登場人物 竜堂《りゅうどう》始《はじめ》(23)  竜堂4兄弟の長兄。責任感ある竜堂家の家長。正体は、東海青竜王|敖広《ごうこう》。 竜堂《りゅうどう》続《つづく》(19)  竜堂4兄弟の次兄。上品な物腰の美青年。  正体は、南海紅竜王|敖紹《ごうしょう》。 竜堂《りゅうどう》終《おわる》(15)  竜堂4兄弟の三弟。好戦的なヤンチャ坊主。 正体は、西海白竜王|敖閏《ごうじゅん》。 竜堂《りゅうどう》余《あまる》(13)  竜堂4兄弟の末弟。潜在的超能力は最大。  正体は、北海黒竜王|敖炎《ごうえん》。 鳥羽《とば》茉理《まつり》(18) 竜堂兄弟の従姉妹《いとこ》。明朗快活な美人 鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》(53)茉理の父。始らの祖父の興した共和学院の現院長。 鳥羽《とば》冴子《さえこ》(48) 茉理の母。 水池《みずち》真彦《まさひこ》(29) 陸上自衛隊第一師団二等陸尉。不良自衛官である。 虹川《にじかわ》耕平《こうへい》(29) 警視庁刑事部理事官。水池の旧友。 蜃海《しんかい》三郎《さぶろう》(29) 国民新聞資料室次長。共和学院時代、虹川の同期生。 松永《まつなが》良彦《よしひこ》(O)  水池の親友。その姿は子犬である。 花井《はない》欣子《きんこ》(37) 竜堂家の隣人。4兄弟を目の敵にしている。 田母沢《たもざわ》篤《あつし》(72) 医薬界の大ボス。生体解剖を趣味とする。 レディL(パトリシア・|S《セシル》・ランズデール)(28)マリガン国際財団参事。四人姉妹《フォー・シスターズ》の手先。 ダグ[#原本では「ダクラス」になっているが明らかに間違いであるので訂正する]ラス・W・ヴィンセント(42)       アメリカ大統領補佐官。 オーガスト・サクソンバーグ大佐(51)     アメリカ軍原子力空母「覇王《ダイナスト》」の艦長。 [#改ページ] 第一章竜王たちと夕食を       ㈵  ……地は暗く、天はさらに暗かった。夜ではない。低くたれこめた黒雲は、そのまま地に接して霧となり、草木の葉を湿らせている。ときとして空の一角が白濁した明るさを見せるのは、雲上で雷光がひらめいているのであろう。その光に数瞬おくれて雷鳴がとどろく。あたかも雲上を、馬に引かれた戦車が走りまわっているかと思われた。  大地は荒涼として、その涯《はて》を知らない。黒濛々《こくもうもう》たる水気がわだかまって、天と地の境ですら分明ではなかった。いたるところに、死の匂いが満ちている。甲冑《かっちゅう》につつまれた人間の屍体が無数にころがり、馬が倒れ、馬に引かれた戦車がくつがえって、車輪を風に空転させているのだ。地表には剣や槍や矢が突き立って、枯木の林を思わせる。  霞鳴が地上に移動したかと思われたのは、五、六|乗《じょう》の戦車が地をとどろかせて疾走してきたからであった。一乗を二頭の馬が引き、甲冑をまとった三人の武人が乗っている。ひとりは馬を駁《ぎょ》し、ひとりは弓を持ち、ひとりは矛《ほこ》を手にしていた。敵に近づいても遠ざかっても戦闘が可能な、三人一組というのが戦車兵の基本であった。  戦車の列が向かっているのは、荒野にそびえたつひとつの城塞であった。宮殿ではなく、あくまでも戦いにそなえて建てられた巍然《ぎぜん》たる城塞である。城壁も、堅牢《けんろう》ではあるが飾りけひとつない石づくりであった。開かれた城門の扉も、厚い青銅板をかさねた防御用のものである。門上の牌《はい》に、「陳塘関《ちんとうかん》」と記されていた。それがこの城の名であろう。  石を敷いた広場に、ひとりの人影がたたずんで、戦車の入城を待っていた。  まだ十二、三歳かと見える少年であった。黒絹の衣と、黒曜石《こくようせき》をさらにみがきあげたように黒々と光る甲冑《かっちゅう》をまとっている。兵士たちが戦車からおり、うやうやしく敷石の上にひざまずくと、少年は不安に耐えかねたように問いかけた。 「哥哥《あにじゃ》たちはいかがなされた? 戦《いく》さは勝ったのか」 「されば、三竜王には、殷《いん》の紂王《ちゅうおう》の軍一〇〇万と戦われること、すでに七日七夜。未《いま》だ勝敗はつまびらかではございませぬ。東海《とうかい》青竜王《せいりゅうおう》さまの御意《ぎょい》にて、以前にかわらずかたくこの城を守るべし、との仰せを黒竜王さまにお伝えいたすべく、戦い半ばに参上いたしました」 「勝敗はまだ決せぬとか」 「御意にございまする」 「わかった。では私が行く。戦車の用意を」  少年が叫ぶと、侍者たちの半ばは命令にしたがうため散ったが、残る半数はおどろいて、若すぎる主人を制した。この少年を後方で安全に守護するよう、他の主人たちから命じられていたからである。口々にいさめたが、いつもはおとなしい少年が意思を変えようとしない。  やがて少年の前に引き出されてきた戦車は、車体の左右に巨大な二輪をそなえたもので、人界で霞われているものと差はない。だが、人界で戦車を引く動物は馬であるのに、この戦車はちがう。戦車を引いて濫《たけ》りたち、咆哮《ほうこう》し、味方の兵士どもさえ容易に近づけようとしない二頭の動物は、火眼《かがん》黒俊[#原本では獣偏であるが、UNICODEになってしまうので「俊」で代用した]猊《こくしゅんげい》であった。全身|漆黒《しっこく》の獅子で、ただ両眼だけが紅玉《ルビー》のように赤く燃えあがっている。  少年が黒俊[#代用、以下「代用」のコメントを省略する]猊に近づいた。恐れる色もなく、猛獣のたくましい顎《あご》の下に手を伸ばし、咽喉《のど》をくすぐってやる。子猫をなだめすかすような動作であった。少年がたてがみに頬《ほほ》を寄せると、黒俊猊は目を細め、甘えるように低く鳴いた。侍者たちを見まわし、少年は、きっぱりと自分の意思を明らかにした。 「哥哥《あにじゃ》たちにばかり戦わせて、私ひとりが安全な場所にいるわけにはいかぬ。およばぬながら、哥哥《あにじゃ》たちに助勢する。そなたらに咎《とが》めがいかぬようにするゆえ、こころよく行かせてくれ」 「なりませぬ、北海《ほっかい》黒竜王《こくりゅうおう》さま」  最年長者らしい白髪の重臣が叫び、兵士だちにむかって手を振りまわした。 「黒竜王さまのご軽挙《けいきょ》をおとめするのじゃ。この城にあって城をお守りなさるが黒竜王さまのお役目なれば……」  老臣の声は、吹きちぎられてしまったようであった。少年が戦車に飛び乗るや手綱を鳴らし、すると二頭の火眼《かがん》黒俊猊《こくしゅんげい》は高々と咆哮して、走り出したのである。  正確には、走り出したのではない。黒俊猊の四肢《しし》は地上わずかの空中に浮いている。戦車の車輪も回転してはいるが、地表できしんでいるのではなく、宙を滑行《かっこう》しているのだった。その走行は、速さといい、なめらかさといい、人界の乗物に可能なものでは、けっしてなかった。 「いかん、黒竜王さまおひとりをやってはならぬ。迫いたてまつって、お守りいたすのじゃ」  ふたたび老臣の叫びで、兵士たちはあわてて戦車に飛び乗った。馬に鞭《むち》をあてる。だが、どれほど駿足《しゅんそく》の馬であれ、すぐれた駁者《ぎょしゃ》であれ、黒俊睨のひく戦車の速度に追いつけるものではなかった。  黒俊猊の引く戦車は、黒い風のかたまりと化して城門を駆《か》けぬけ、みるみるうちに城塞を後方に置き去りにしていた。荒野を疾駆《しっく》する速さは、鬼気をおびた霧のなかでもおとろえぬ。黒ずくめの姿のなかで少年の顔だけが珠玉のように白く、その顔は、たちまち霧に濡れて睫毛《まつげ》を湿らせた。  疾駆が突然にやみ、戦車上の少年は、あやうく前方に身体《からだ》を投げ出されそうになった。体勢をたてなおし、いぶかしむ少年の耳に、黒俊猊《こくしゅんげい》のうなり声が聴こえた。黒い剛毛がさかだち、前進しようとせぬ。明らかに恐怖と嫌悪のようすで、前方を警戒しているのだった。  地が割れた。泥と土をはねあげて、巨大な影が戦車の前に姿をあらわした。少年の二倍ほど高く、二倍ほど幅の広い巨体の男。甲冑《かっちゅう》をまとい、その顔は人間のものではなかった。人間の身体に、牛の首が載《の》っている。牛首人身の怪物であった。両眼は黄色い炎が燃えているようであり、すさまじいほどの悪意が全身から発散されている。  少年は息をのんだ。だが恐れも怯《ひる》みもせず、手綱をにぎったままで叫んだ。 「わが姓は敖《ごう》、名は炎《えん》、字《あざな》は季卿《きけい》。天界にあって北海黒竜王と号するをえたり。何をもって、わが行手をはばむか。返答によっては、剣をもって礼にかえるぞ」 「敖《ごう》家の季子《すえっこ》か」  怪物は吐《は》きすてた。奇怪な顔だちが、憤怒と憎悪のため、さらに奇怪にゆがんだ。口もとから、彎曲《わんきょく》した巨大な牙がこぼれた。嘲弄《ちょうろう》の波動が、湿った大気をゆるがした。 「北海黒竜王とは、ごたいそうな。兄どもの甲冑の袖《そで》に隠れるより能のない柔弱児《にゅうじゃくじ》が、何を血迷って、おれに剣を向けようというのだ。おれはきさまに、吉《よ》き報《しら》せを持ってきてやったのだぞ」 「吉報だと?」 「そうだ。きさまの兄三名は、紂王《ちゅうおう》の軍に敗れ、首と胴を別々にされたわ。竜種はことごとく滅びる。兄どもと永く別れては寂しかろうゆえ、ここできさまも黄泉《よみ》へ旅立たせてくれようぞ」  牛首人身の怪物は、大剣を抜き放った。刃は長く、幅広く、厚く、斬るというより撃《う》ち砕くための武器であるように思われた。びゅっと空を斬って威嚇《いかく》したとき、少年のほうが怪物に襲いかかった。戦車の床を蹴《け》って宙に躍る。背に負った長剣が、白い光芒となって怪物の頭上に落ちかかった。怪物の冑《かぶと》が割れ飛んだ。二本の角がむき出しになったが、怪物は宙にある少年の足首を左手でつかみ、地に放り出した。 「そこまでか、孺子《こぞう》……!」  咆《ほ》えたけった怪物が大剣を振りかざしたとき、空気が鳴った。怪物の右耳を、一本の矢がつらぬいていた。苦痛と狼狽《ろうばい》の叫びをあげ、怪物は耳をつらぬいた矢を抜きとった。地上ではねおきた少年が、喜びの声をあげた。 「哥哥《あにじゃ》!」  いま一乗の戦車が、城塞と反対の方向から駆けてきたのだ。黒俊猊《こくしゅんげい》の引く戦車におとらぬ速さと軽快さで疾走するそれは、二頭の白麒麟《はくきりん》に引かれ、たちまち怪物の前に到った。 「敖《ごう》家の三男、西海《せいかい》白竜王《はくりゅうおう》敖閏《ごうじゅん》、字は叔卿《しゅくけい》」  そう名乗る声は、明るく、活力と生気に満ちている。白絹の衣、白銀の甲冑を着こんだ人物は、最初の少年よりは年長であったが、それでも一五歳というところだ。弟に笑いかけると、少年は怪物をにらみつけた。 「戦《いく》さはわれらの勝利だ。紂王は身辺わずか十数騎となって戦場を落ちていった。殷《いん》の兵一〇〇万、黄河の畔《ほとり》に屍《しかばね》を並べて幽鬼と化しておる。いずれ祭祀《さいし》をとりおこなって霊を安んじねばならぬが、とにかく歴史は定まった」  ひと息ついて、さらにつづける。 「殷《いん》が滅びて周《しゅう》が興《おこ》る。蚩尤《しゆう》よ、忘れてはおるまいな。人界のこと、天界におよぶ。世の半ばは竜種の支配するところとなった。天界の決議にしたがい、すみやかに西方へ去れ!」 「だまれ、だまれ」  怪物は咆《ほ》えた。傷の痛みを上まわる失望が、彼の心を煮えたぎらせているようだった。 「おれは認めぬぞ。天界の奴らに何がわかる。奴らはいつでも高処《たかみ》の見物を決めこんで、他人に血を流させるのだ。おれはおれの掟《おきて》にしかしたがわぬぞ!」  まばゆい白銀の甲冑《かっちゅう》をかがやかせた少年は、爽快な笑声をあげた。両眼が、太陽を受けた水晶のように明るくきらめいている。 「この期《ご》におよんで何をいうか。周滅びて殷《いん》つづくときは、牛種の勝ち。殷滅びて周興るときは、竜種の勝ち。天界が命数をさだめたるところ。また爾《なんじ》もそれを諒《リょう》としたはず。いまさら自分に不利だからとて、天界の盟を破約しようとは、みぐるしいぞ。恥を知れ!」  勢いよく決めつけられて、怪物の両眼がひるむ色を浮かべた。 「なお地界人界の西半分は、爾《なんじ》ら牛種の手中に残るではないか。それに飽きたりず、すべてを支配せんと欲するとは、強欲のきわみよ。自《みずか》らかえりみて、そう思わぬか」 「やかましい! 竜帝の小せがれごときに、ほしいままに罵《ののし》られて、おれがおそれいると思うか。敖《ごう》家の三弟と末弟、ならべて首をはね、黄河に蹴《け》りこんで怪魚どもの餌としてくれようぞ」 「やむをえぬ。爾《なんじ》を斬って、天界の理《ことわり》が奈辺《なへん》にあるか、明らかにするとしよう」  白衣銀甲の少年は、不敵に笑った。背中に負《お》っていた長剣の柄に右手がかかる。 「もともと、きさまに理が通ると思ってはいなかった。哥哥《あにじゃ》たちが抑えるゆえ、黙っていただけのことだ。おれの弟に害を加えただけで、罪の大きさは黄河の堤防をこすほど。さあ、罪をあがなってもらおうか」  抜き放たれた剣は、刃に北斗七星の模様が描かれている。怪物は鼻息を荒くした。 「七星宝剣《しちせいほうけん》ごときで、おれが斬れるか。身のほど知らずの孺子《こぞう》めが」 「人界の剣にあらず。そのていどのこともわからぬか。牛には牛の知恵しかないと見えるな。しょせん図体だけと知れたぞ」 「ぬかせっ」  怪物は突進した。盲目的な突進に見えたが、怪物は狡猾《こうかつ》だった。やにわに方向をかえ、地面に起きあがった黒竜王につかみかかる。人質にとろうとしたのである。瞬間、白竜王が高く跳《と》んだ。弟と同じ技。だが弟より迅速であった。  大気が裂けた。振りおろされた剣は、剛速の動きで真空の刃をともない、蚩尤《しゆう》と呼ばれた怪物の頭部を斬り裂いた。剣は怪物の頭頂部から頸部《けいぶ》に達し、胸に達し、腹に達し、ついに股間まで達して、怪物の巨体をまっぷたつにした。  悲鳴がとどろいた。左右に分断された怪物の巨体は、剣勢《けんせい》にしたがって別々の方角へ割れ倒れた。地ひびきがたつ。奇怪なことに、一滴の血も流れ出してこなかった。 「やった、哥哥《あにじゃ》ー」  黒衣黒甲の少年が兄に飛びついた。白竜王と名乗った少年は、うなずきながらも、自分が倒した相手をながめやって眼光を鋭くした。  地に倒れた怪物は、死んでいなかった。まっぷたつに斬り裂かれた左右の身体は、それぞれ片手と片ひざを使ってもがきまわり、起《た》ちあがろうとしていた。すさまじい呪詛《じゅそ》を、斬り裂かれた口から洩《も》らし、鼻孔から瘴気《しょうき》の煙を噴き出し、目に血光《けっこう》をみなぎらせながら、なお闘志と殺意は衰えていなかった。白衣銀甲の少年が、弟を背後にかばい、七星宝剣をかまえなおしたとき、さらに二乗の戦車がその場へ近づいてくるのが見えた。しかもその背後には、軍旗が数百も数千もひるがえり、無数の戦車群がしたがっているのだ。  怪物は敗北のうめきをあげた。ぶざまに切断されたままの身体で、のろのろと地を這《は》い、逃げ始める。  白竜王が追おうとすると、近づいた戦車から声がかかった。 [#天野版挿絵 ] [#天野版挿絵 ] 「追うな、叔卿《しゅくけい》!」 「だって、哥哥《あにじゃ》……」 「追うな。奴を殺してはならぬ。天界でのさだめだ、遵守《じゅんしゅ》せねばなるまい」  青絹の衣と、巨大な青玉《サファイア》を彫りあげたような甲冑《かっちゅう》を着こんだ長身の青年であった。いながらにして他者を圧倒する風格と威をそなえている。彼の戦車を引くのは、二頭の青權[#原本では月偏に草冠の間が切れている文字だが、そんな文字は出せない]疏《せいかんそ》。青い毛皮をもつユニコーンであった。額にそびえる角は、これも青玉《サファイア》でつくられたような硬質の青さだ。 「殷《いん》は減びました。周王朝が人界の半ばを支配します。これで三〇〇〇年は人界と地界の平和が保《たも》たれると天界ではいっていますが、さて、どんなものでしょうか」  ものやわらかにそう述べたのは、紅絹の衣と、紅玉《ルビー》でつくったようにあでやかな甲冑を着た若者である。戦場にあり、武装しているにもかかわらず、優婉《ゆうえん》にして端麗なこと、目をみはるばかりだ。その戦車を引く二頭の神獣《しんじゅう》は紅飛簾《こうひれん》という。全身炎のように赤く、鹿に似て、豹《ひょう》のような斑点があり、尾は蛇である。  青衣の男は、敖《ごう》家の長男、名を広《こう》、字を伯卿《はくけい》、東海青竜王を号す。紅衣の人物は、敖家の次男、名を紹《しょう》、字を仲卿《ちゅうけい》、南海《なんかい》紅竜王《こうりゅうおう》を号す。周の武王《ぶおう》を助け、殷の紂王《ちゅうおう》を討って凱旋するところであった。 「さあ、人界のことは武王にまかせて、おれたちは婦ろう、水晶宮へ。そして長い吉《よ》い夢を見るとしよう」  青竜王が高く片手をあげると、後方にしたがう数万の戦車兵が万雷のような歓声をあげて、竜王軍の勝利を祝った。  ……西暦にして紀元前一〇六六年のことと伝えられる。この年、中国大陸において殷王朝が減亡し、周王朝がそれにとってかわった。世にいう「殷周革命《いんしゅうかくめい》」である。周王朝は、ほぼ八○○年にわたってつづいたが、その後半は春秋《しゅんじゅう》戦国《せんごく》と称される乱世であり、無数の哲人や思想家が輩出して、中華文明の花を咲き競わせた。やがて紀元前二二〇年に至り、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》が天下を統一する。王の世が終わり、帝の時代がはじまる……。       ㈼  竜堂《りゅうどう》余《あまる》が目をさましたとき、自分のいる場所はすぐにわかった。竜堂家の屋根裏にある自分の部屋、自分のベッドだ。だが、時刻はすぐには把握《はあく》できなかった。周囲の薄暗さが早朝のものではなく黄昏《たそがれ》のものとわかったのは、兄の声を聴いたからだった。三番めの兄、竜堂|終《おわる》が、ベッドのそばに立ち、兄貴ぶって余の顔をのぞきこんでいた。 「やっぱり夕方まで寝ているのはよくないなあ。悪い夢を見たろう? ずいぶん汗をかいてるぞ」 「もう夕方なの?」 「六時すぎだ。一〇時間以上、眠っちまったな。まあちょっとばかし疲れてたから」  ちょっとばかし疲れた原因は、在日アメリカ軍の横田基地を完全破壊したからである。二〇世紀の終わりを数年後にひかえた夏の一夜のできごとだった。  弟から夢の話を聞くと、彼はふむふむとうなずいた。 「で、どうだ、夢のなかに出てきたおれ、かっこよかったか?」 「すごくかっこよかった。まっしろい服と甲《よろい》を着て、うんと強かったよ」 「白い服? 幽霊みたいだな」  美術的センスにとぼしいと次兄から評されている三男坊は、それを実証するようなことを口にした。 「それにしても、兄貴たち、夢のなかでもさぼり癖《ぐせ》がついたらしいな。余やおれを怪物と戦わせておいて、自分たちは、あとからのこのこあらわれるなんてな」  言い終えると同時に、屋根裏部屋のドアが開いて、三人めの兄弟があらわれた。 「何をしてるんです? さっさと起きて顔を洗いなさい。夕食の時間ですよ」  よく考えると、あまり正常な家庭での発言とは思えない。それを優稚なほどの口調でいってのけ、超然としている人物は、ふたりの少年の兄であった。竜堂|続《つづく》一九歳、共和学院大学文学部の二年生である。髪の色がやや明るく、顔だちの繊麗《せんれい》さといい、動作の雅《みやび》やかさといい、泰西《たいせい》名画に登場する宮廷の貴公子を思わせる。  女王エリザベス一世や皇帝ピョートル一世や国王フリードリヒ二世や枢機卿《すうききょう》リシュリューの活躍した時代。近世ヨーロッパに生まれたら、さぞ有能な貴族外交官になったことだろう。優雅な身ぶりで毒舌の剣を相手に突き刺し、自国にもっとも有利な形で開戦に持ちこむ、というわけだ。長兄の始《はじめ》が、そういって弟をからかうと、続はいささか不本意そうに答えたものである。 「でも、兄さん、ぼくはけっして理不尽《りふじん》なことをしたおぼえはありませんよ。竜堂家の家訓を破ったことは一度もありません」  続は人間の姿をしているときは自衛隊の戦車や警視庁のパトカーを乗っとり、竜に変身したときは東京都庁をはじめとしていくつかの超高層ビルを破壊した前科がある。法律なんかより家訓のほうが竜堂兄弟にはだいじなのである。  とにかくも次男坊にせかされて、三男坊と末っ子は大いそぎで行動を開始し、洗面所経由で食堂へ駆けつけた。食欲は万物にまさる加速剤であろう。ことに健康な一五歳と一三歳にとっては。  食堂の大きなテーブルでは、すでに、質量ともにそろった料理の数々が、誘惑のダンスを踊っていた。二三歳の長兄、竜堂始は、気むずかしげな表情で夕刊の文字に見入っていた。重大な記事がのっているからというより、新聞を前にすると、この若い活字中毒者は、何となく気むずかしげな表情になってしまうのである。 「おはよう、兄貴」 「おはよう、兄さん」  時刻的にこの挨拶《あいさつ》は不適切なのではあるまいか、と、竜堂家の若い家長は思ったが、「こんばんは」と返すのも奇妙なものなので、「ああ」と、暖昧《あいまい》にうなずいただけである。やはりきちんと朝おきて夜は眠るべきだな、と、文部省や厚生省が賛同するようなことを考えながら新聞をたたむ。 「さあ、たくさん食べてね。全身に栄養がいきわたってから、今後どうするかを考えましょ。お腹がすいてるときに何か考えても、いい思案なんて出やしないわ」  年齢順に御飯《ごはん》をよそいながら、そういったのは鳥羽《とば》茉理《まつり》である。竜堂兄弟の叔母《おば》の娘で、青蘭女子大学の一年生だ。それで両親は私立大学の経営者とあれば、まずお嬢さまといって社会的に通用するであろう。その実体は、竜堂家の主婦代行で家庭料理の名人であり、運転免許なしでパトカーを乗りまわし、許可証もなく拳銃を発射する無法者である。だからといって、おどろくこともない。日本は、収賄《しゅうわい》やインサイダー取引の犯罪者が、平然として、政治改革や道徳教育を説く、ありがたいお国柄である。 「はい、どうぞ、みなさん」 「いただきまあす!」  声と同時に、合計一〇本の箸《はし》が持主の個性にしたがって動きだす。めまぐるしく勢いよく動く箸もあれば、優美なくせに流れるような動きで多大の戦果をあげる箸もある。この夜のメニューは、御飯のほかに、かきたま汁、精進《しょうじん》あげ、シーチキンの照焼ステーキ、きゅうりの鰹節あえ、もやしの酢の物、海苔《のり》の佃煮《つくだに》という多彩なものだった。終など、海苔の佃煮だけで御飯三杯はいけるという、食糧危機の敵であるが、おかずが多いとよけいうれしい。残すなんて思いもよらぬ。長兄の始はというと、ニュースの|TV《テレビ》画面に視線を送りつつ、悠々と、自分の勢力範囲を確保していた。  TV画画にあらわれた在日アメリカ軍および駐日アメリカ大使館のスポークスマンは、ノー・コメントを繰《く》り返している。それ以外に対応のしようがないであろう。世界最強のアメリカ軍が、こてんぱんにたたきのめされたのだ。認めるわけにはいかない。といって隠しおおすこともできない。国防総省《ペンタゴン》の指示を待つしかないところである。  始が苦笑してしまったのは、とうの昔に潰滅してしまったと思われていた極左過激派のセクトが、アメリカ軍横田基地の破壊について「犯行声明」を出してきたことである。それもひとつのセクトではなく、三つのセクトが前後してだ。事実が知れるはずはない、と思っているのだろうが笑止《しょうし》なことである。むろん、真犯人たちとしては、公然と名乗り出るわけにはいかなかった。  現在のところ、竜堂家の周囲はまだ機動隊に包囲されてはいない。包囲されたところでいっこうにかまわないが、始としても、今後どうするか心を決めているわけではない。どうやら時間的余裕があるのがありがたかった。  それにしても、事態はかなり深刻で悲劇的なはずなのだがなあ、と、始は思うのである。超能力者が権力者にねらわれ、追いまわされる話は、過去いくつもの小説や映画やTVドラマになっていて、いずれも悲劇じたてである。状況そのものは、竜堂兄弟もまったく同じはずなのだが、始が見たところ、どうもいっこう悲惨にならないのであった。  竜堂兄弟を追うがわの連中は、さぞ腹だたしいであろう。権力者に追われる超能力者は、追いつめられて世の片隅にひそみ隠れ、いずれ悲惨な最期をとげるものである。どんな超能力より国家権力が強いのだ。それを否定する者は、絶対に赦《ゆる》せないにちがいなかった。  活気にみちた食事が終わると、五人分担して食器のあとかたづけだ。年少組のふたりはキャンプ気分で茉理をてつだった。七時になると、五人は居間に移って、そこでお茶を飲みながら、余の夢の検証がはじまった。  自分が見た不思議な夢のことを、あらためて余は語った。ときどき目を閉じて、情景を思いおこしながら、できるだけ正確に記憶をたどった。聞くがわからの質問もあって、長い長い話が終わったとき、すでに時計の針は九時をまわっていた。 「白竜王かあ、いいなあ。白絹の服なんて、おれの清らかな心にぴったりだぜ」  満腹したら心境が変化したのか、さっきとはまったくちがう台詞を終が吐いた。長兄の始は、真剣に余に尋《たず》ねた。 「その怪物は、たしかに蚩尤《しゆう》といったのか」 「うん、そういってた」 「ふむ、ちょっと待ってくれよ。ほんとうに蚩尤だとしたら……」  立ちあがって、始はいったん居間を出て行った。五分ほどしてもどってくると、両手に四、五冊の厚い本をかかえていた。床に並べたうちから一冊を取りあげ、ぺージをめくる。それは中国古代遺跡の写真や図版を集めた本であった。 「これは中国の山東省《さんとうしょう》、沂南《きなん》古墓《こぼ》墓室《ぼしつ》前室《ぜんしつ》北壁《ほくへき》正中《せいちゅう》一段《いちだん》で発見されたんだが」 「キナンコボ……何だって、兄貴?」 「そう簡単にくりかえせるか。とにかく見てみろ」  始の指が図版をさし示した。八つの目が、そこに集中した。怪物の図版である。角と牙をはやし、大きく口をあけ、両手に武器を持った獰猛《どうもう》な怪物の姿。 「これが蚩尤《しゆう》ですか」 「その画像のひとつだ。こちらにも、べつの絵がある」  それは「武梁《ぶりょう》祠《し》画像石《がぞうせき》」と呼ばれる画像で、やはり奇怪な姿が描かれていた。牛の顔をして二本足で立ち、両手にやはり武器をかまえた怪物。その両目が余をじっとにらみつけるようであった。       ㈽  そもそも蚩尤《しゆう》とは、中国超古代の神話世界において、おそらく最大の悪役をつとめた怪物の名である。彼は黄帝《こうてい》への対抗者であった。 「史記・五帝本紀《ごていほんき》」によれば、中国文明の父祖である黄帝に叛旗《はんき》をひるがえした蚩尤は、啄[#原本はさんずい]鹿《たくろく》の野において黄帝の軍と戦い、長きにわたる戦いの末、ついに敗れ去った。「史記」の記述はごく簡潔だが、「十八史略」などによれば、その戦いはきわめて奇怪なものであったという。 「牛の顔を持つ悪《あ》しき怪物。たしかに余君の夢のとおりですね」 「しかしな、一方で牛首人身は聖王の象《しるし》でもあるんだ。神農《しんのう》がそれだ。これはいわゆる三皇《さんこう》のひとりで、農業、医薬、易《えき》などの創始者なんだが」 「いずれにしても角《つの》があるわけよね」 「そう、角は超人性の象徴なわけだ。善悪いずれにせよ、ね。終、イスカンダル双角王という人を知ってるか?」 「知ってるわけないだろ!」 「自慢するな。じゃアレクサンドロス大王なら、いくら何でも知ってるだろう。それともやっぱり知らんか?」 「そ、それって侮辱だと思う」 「知ってるならけっこう。要するに、ふたりは同一人物だ」  アレクサンドロス大王は、英語読みの「アレクサンダー」としてむしろ日本では知られている。マケドニアから出て全ギリシアを統一し、古代ペルシア帝国を滅ぼして、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがるヘレニズム帝国を建設した。この人物は、ペルシアやインドで伝説化され、「彼の頭部には二本の角があった。ゆえにイスカンダルは双角王と呼ばれた」とされている。現在でも、地中海の東岸には、イスカンダルという名の港市がある。 「それと同じことで、神農も偉大な聖王としてあがめられていたんだ。農業や医薬の神さまだから、悪神であるはずはないんだよなあ……」  始は納得できない気分である。  ただ、神農の子孫は黄帝と阪泉《はんせん》の野で戦って天下を失った、と、「史記」の五帝本紀にある。つまるところ、黄帝が中国文明の正統であるとすれば、神農にせよ蚩尤《しゆう》にせよ、牛首人身は反正統ということになるのだろうか。このあたり、うっかり結論にとびつくわけにはいかないぞ、と、始は自戒する。 「それでさっきの蚩尤だけどさ、兄貴」  身を乗り出すようにして、終が質問した。 「黄帝にやっつけられて、その後どうしたのさ。死刑になっちゃったわけ?」 「いや、ただ追放されただけじゃなかったかな」 「じゃあ、復讐を誓ってずっとどこかに潜《ひそ》んでたんだぜ、きっと。それが殷《いん》と周の戦いのとき、またぞろ出現したんだ。おれならきっとそうするね」 「終君は執念深いですからね」 「続兄貴ほどじゃねえやい」 「さて、そこでだ」  始は、次男坊と三男坊の不毛な対決を、長男の貫禄《かんろく》で強引にねじふせた。 「殷周革命は、黄帝や蚩尤の時代から一五○○年以上も未来のできごとだ。そして、おれの知るところ、蛍尤の名が殷周革命にからんで出てくるのは、例の『補天石奇説余話《ほてんせききせつよわ》』しかないんだ」  革命とは、英語のレボルーションを翻訳した言葉ではない。革レ[#「レ」は返り点]命——命《めい》を革《あらた》める。すなわち、ひとつの王朝の天命がつきて、べつの王朝がとってかわることである。「王朝の交替」これが「革命」の本来の意味である。たとえば、漢《かん》が滅びて魏《ぎ》がおこることを「漢魏革命」という。  それらのなかで、「殷周革命」がもっとも有名である。それに六〇〇年ほど先だって「夏殷《かいん》革命」というものがあったはずだが、これはほんとうに単なる王朝交替であって、当時の世界をゆるがしたものではなかったようだ。世界をゆるがした革命。それがつまり殷周革命であったのである。  あえて断定すれば、殷周革命は、中国の超古代から古代への移行であり、神々の時代から人間の時代への転換であった。文明的、社会的に、きわめて大きな変化があったとされている。殷は祭政《さいせい》一致、つまり宗教と政治が一体化し、政治や軍事のことは、すべて占《うら》いやお告げによってさだめられた。また多くの奴隷がおり、青銅器文化がさかえた。周の時代、殷の文化的社会的伝統は失われ、王国維《おうこくい》(一八七七ー一九二七)という有名な学者は、中国の文化の源流は周にあり、殷の文化はほとんど後世に伝わらなかったと説いている。古代文明にあこがれた孔子《こうし》も、「周の世に返れ」といって、殷を完全に無視しているのだ。  この殷周革命には、殷の討王、周の武王、それに妖婦の妲妃《だっき》とか軍師の太公望《たいこうぼう》とか、有名な人たちが登場する。それを小説化したものが「封神演義《ほうしんえんぎ》」という本である。 「『封神演義』って、あれだろ。四海竜王がちょい役で出てきて、てんで弱くてさ、なさけないんだよな」 「竜王って『西遊記』でも弱いよね」 「あれはしかたないんだ。『西遊記』では、お釈迦《しゃか》さまとか観音《かんのん》さまとか。仏教の仏さまたちがえらくて、中国の民間信仰に出てくる神さまは、やられ役とか引き立て役にされてしまってる。竜王も民間信仰の神だからな。だから、『西遊記』の作者は仏教団体に属した人だったのではないか、という説もあるんだ」  っいつい教師口調で始は説明したが、どうも話がそれてしまったようであった。要するに、蚩尤《しゆう》という怪神が殷周革命にからんでくる、という記述は、「補天石奇説余話」にしか載《の》っていない、ということである。これは「補天石奇説余話」という文書のユニークさであるが、ユニークだから正しい、とか、すぐれている、とかいった評価はできないのである。 「どうもね、兄さん、『補天石奇説余話』という本には、チャーチワードのムー大陸実在説と共通するものを感じますよ」 「もっともらしいほら[#「ほら」に傍点]話か」  始は苦笑した。続は笑いもしなかった。 「もっともらしいですかねえ」 「ムー大陸伝説」は、ほら[#「ほら」に傍点]話としてはそれなりに雄大でおもしろいが、学問としてはまったく問題にならない。なぜかといえば、資料を公開していないからだ。  日本の古代史を論じるとき、「古事記」、「日本書紀」、「魏志倭人伝」などが研究や討論の対象となる。オーソドックスでないものだと、「宮下文書」とか「日外流《つがる》三郡誌」とかも持ち出されてる。これらの正統非正統の文書は、とにかく実在が確認されており、誰でもそれを入手して読んだり分析したりすることができる。「こんなものは偽書だ」「いや、ほんものだ」という論争が生じるのも、文書が公開され、それをもとに研究が多くの人によっておこなわれているからだ。  公開されない資料による学問、などというものは、この世に存在しないのである。 「ムー大陸伝説」はどうか。ムー大陸の実在を唱えた人物は、ジェームズ・チャーチワードという英国人だということになっている。彼自身の説明によれば、「インドの古僧院に秘蔵された粘土板の碑文」に、ムー大陸の実在が記されていたという。だが、その碑文を見たというのは、当のチャーチワードだけである。他の誰ひとり、そんなものを見た者はいないのだ。  碑文そのものが外に出せないとすれば、せめてその全文を書写し、解読法を明らかにすべきであろう。ほんとうに学説として他人に信じてもらうためには。だが、チャーチワードは、それすらしない。解読した結果だけを発表しているのだが、その解読が正しいという証明はどこにあるのだろう。いや、そもそも、「古寺院の碑文」なるものが実在するという証明すらないのだ。 「ムー大陸伝説」が学問として認められないのは、それを提唱したチャーチワード自身の責任である。そもそもこのチャーチワードという人は、いつどこで生まれてどこで死んだかも不明なのだ。彼の引用には、誰も見たことのない古文書や、いつどこで採集されたか明記されていない「伝説」がたいへん多い。 「もはや疑う余地はない。ムー大陸は実在したのだ」と主張する人は現在も多いが、そういう人がまた開祖チャーチワードのまねをして、出典を明らかにもせず「古い伝説によると」とか「ある古文書によれば」とか平然と書くのである。こうして「ムー大陸伝説」は学問からどんどん遠ざかり、「ムー教」とでもいうべき一種の新興宗教になりさがっている。  かつてそういった「信者」のひとりと、続は討論したことがあった。相手が「紀元前五〇〇年頃の中国の記録」という代物《しろもの》を論拠として持ち出してきたので、続はたてつづけに質問をあびせたのだ。 「その記録とやらは、いまどこにあるんです? 記録の名は何というんです? 紀元前五〇〇年といえば『史記』や『春秋《しゅんじゅう》』より旧《ふる》いですけど、そう推定した根拠は? その当時は紙がまだ発明されていなかったから竹簡《ちくかん》になりますが、それはどこから発掘されたのでしょう? それに、その当時はまだ漢字が完全に統一されていなかったはずですが、どの系統の字で書かれていたんです? チャーチワードはどうやってそれを解読したんでしょう?」  相手は、まったく答えることができなかった。  チャーチワードという人物は、古文書や古寺院さえ待ち出せば他人を納得させることができると思いこんでいた、誇大妄想のファンタジー作家だ、と、長兄の始は考えているが、ムー教のご開祖のことなど、じつはどうでもいい。問題は「補天石奇説余話」のほうである。これがチャーチワードの「失われたムー大陸」と同じく、もっともらしい話を並べたててはいるが、じつはろくな根拠もないよた[#「よた」に傍点]話でしかない、という見方を否定する根拠はどこにもない。というより、続がいうとおり、これは偽書であろう、と始も思う。ただ、だとすると、その偽書は何者が何の目的をもって記したものか、という謎《なぞ》が出てくるのだ。そしてその謎は、なぜか始の意識にひっかかって、棘《とげ》のように彼をいらだたせるのだった。       ㈿  竜堂家にほど近い住宅街の一角で、夜気がうごめいた。何か白っぽい、透明感のあるものが揺れながら出現し、しだいに人間の形をとりはじめる。だが、完全に人間としての姿をあらわしはしなかった。ぼやけた輪郭を、地上低い位置にたゆたわせている。心霊現象に関心のある者がそのありさまを目にしたら、「幽体離脱だ」と叫んだかもしれない。距離にして数千キロも離れた場所にいる何者かが、肉体をそのまま、精神エネルギーを遠方へ飛ばし、そこに存在する事象を感知するのである。現代科学によって証明される現象ではなく、また証明すべきことでも、おそらくはないであろう。  白っぽい人影は三つあった。それらはゆるやかに揺動しつつ、彼らの意識を直接かわしあうことによって会話をしていたのだ。 「殷周革命より三〇六〇年、敖《ごう》家は一一七代を経て竜血覚醒するの時を迎えた。これからいろいろとおもしろくなりそうだ」  そう語った意識の声は、青年のものに思われる。知性と、心のゆとりに富んだ印象があった。それに答える意識の声は、重厚で、ややかたくるしいひびきも感じられる中年の男性のものであった。 「おもしろいおもしろいだけでは、事態はすむまいぞ。彼らはこれまでにもすくなからず、平地に乱をおこしておる。低級な悪党どもを相手に、ちと無益な力を使いすぎではないか」  ひとたび切った声は、すぐに再開された。 「第一、真の覚醒には、まだ遠いぞ。彼らは人身から竜身に変化しなければ、力を用いることができぬのだ。しかも、竜身と化してなお、すべての力を発揮しえておるわけではないのだからな」  その声に答える三番めの声は、もっとも若く柔かい。笑っているようでもある。 「やれやれ、曹国舅《そうこっきゅう》もご短気な……三〇六〇年一一七代にわたる雌伏と待機の時に較《くら》べれば、多少の不備が何であろう。書物を読む娯《たの》しみは、ぺージを一枚一枚めくることにあるものを……」 「一ページがつみかさなったあげく、現在の世界はどうなっておる? 四人姉妹《フオー・シスターズ》とやら称する下っぱどもに、いいように玩具《おもちゃ》にされておるではないか。阿片《あへん》戦争のときも、鄭和《ていわ》の遠征のときも、いくらでも介入《かいにゅう》すべき事態はあったものを……」  そこまで言ったときである。 「おい、そこで何をしている!」  いたけだかな呼びかけとともに、白熱した暴力的な光が夜を切り裂いてきた。夜間巡回中の警官ふたりである。この数日数夜、警官たちにとっては悲鳴をあげたいほど多くの社会的混乱や騒動が連続している。気分がとげとげしくなり、夜道で奇妙な人影を見かけたら、頭ごなしにどなりつけたくなるのも、むりはなかった。  警官たちの怒号と同時に、みっつの白っぽい人影は音もなく薄れて消えてしまった。と、身動きしようとする警宮たちの頭上に無数の、幾種類もの花が降ってきたのだ。  警官たちは呆然と立ちすくんだ。立ちすくむ彼らの周囲に、花々は多彩な吹雪となって降りそそぎ、その足もとを埋めはじめた。それにも気づかぬように、警官たちは立ちつくしたままである。焦点を失った目に、陶酔した光が点滅していた。あきらかに、精神操作を受け、甘美な幻影のうちにとらわれている。  だが、つみかさなる花は幻影ではなかった。その香は周囲に流れ、一部住民のけたたましい反応を呼びおこしたのだ。竜堂家のお隣り、花井家では、欣子《きんこ》夫人が河馬《かば》のような鼻息を噴き出していた。 「ちょっと、あなた、ようすが変だわ。またお隣りの兄弟が何かやらかしたのよ!」 「いったい今度は何だね」  と、夫の声には熱がない。 「花が降ってきたのよ。花よ! 雨でも雪でも槍でもないのよッ」 「雪のほうがおどろくね」  花井氏はつぶやいた。現在の季節は夏である。雪が降ったら異常気象の極致だ。 「何いってるの! 花がたくさん出てきたら花粉を撒《ま》き散らすじゃないのッ。東京都民を花粉症にして、政治と社会を混乱させる陰謀かもしれないわよッ!」 「花粉症の原因は杉の花粉だよ。それに、どうやって竜堂さんのご兄弟が花なんか降らせることができるんだい」  返事はなかった。人類の敵の行動を監視する正義の戦士。そう自己を規定する花井夫人は、使命感に燃える幅広の身体を夜の庭へと運び出し、玩具《おもちゃ》の潜望鏡でもって、竜堂家の浴室をのぞこうとしているのであった。彼女にとって、そこは悪の地底軍団の総司令部であるらしかった。ほどなく、怒りの叫びと水音がひびいてきた。居間で文庫本を読んでいた花井氏は、一歩もその場を動くことなく、事態を洞察《どうさつ》した。故意か偶然か、悪の軍団の誰《だれ》かが、総司令部の窓から、水かお湯をぶちまけたのであった。 [#改ページ] 第二章 われらが不満の夏       ㈵  二○世紀の終末を数年後にひかえたこの年の夏、日本国は何やら騒然としていた。  まず戦後最大といわれる集団汚職事件が発生した。もっとも、汚職事件というものは、発生するたびに「戦後最大」といわれるようだが、新任の閣僚が三人も辞任し、大企業の役員が二ダースも逮捕されては、やはり小さな事件とはいえないだろう。  そして、その事件を灰色の影として色あせさせてしまわせたのが、竜の出現だった。これまで伝説や神話のなかにだけ棲《す》みついていた架空の聖獣が、世界経済の中枢といわれるトーキョー・シティに出現したのである。  ただ出現しただけなら、ネス湖の怪獣あたりと同レベルの話題になっただけだろうが、炎を吐く紅竜が新宿新都心を火の海と化せしめ、白銀色の竜が暴風をおこしてアメリカ軍横田基地を潰滅させ、ついでに黒い竜が雨をふらし——要するに現代機械文明に対する神話世界の侵略が、フルカラー・オーケストラつきで文明人たちの目にさらけ出されたというわけであった。  その間に、小さいようで見すごせない事件も点在しており、首相は記者たちから質問ぜめにされた。 「戦車が乗っとられた? はて、何のことでしょう。初耳ですな」  嘘発見器を赤面させるような平静さで、首相は答えた。記者たちは一瞬、絶句した。ひとりが気をとりなおして再質問した。先日、陸上自衛隊の戦車が四、五人のテロリストに強奪されたというが、真偽のほどは、と。首相の平静さは、ゆらぐことがなかった。 「映画や漫画としては、おもしろいですなあ。ですが現実はそんなものとちがいますからねえ。もっと地味でゲンシュクなものですよ」 「ですが首相、私たちの入手した情報では、冗談ですむような話とは思えませんが」 「それは、あなたがたの見解でございましょうが、私には私の見解がございますので、おたがいの自由な意思と見解を尊重しようではございませんか」 「そういうレベルの問題じゃないでしょう、首相。あなたは一国の総理大臣なんですよ。戦車がテロリストに奪われた、これはたいへんな事件です。国民に真相を知らせるのが、あなたの義務じゃありませんか」 「君、首相に失礼なことを言っちゃいかんよ」  頭ごなしに叱りつけたのは、首相の秘書官ではなく、国民新聞のベテラン政治記者だった。他の記者たちが厳しい質問を発すると、いつもそれを妨害する男で、首相の派閥にべったりくっついて使い走りや情報収案をおこなっている。二、三年のうちに首相の派閥から総選挙に出馬するという噂だ。  首相はボデーガードの巨体の群に埋没したまま移動していき、記者たちはそれを見送って呆然と立ちつくした。やがてたがいに顔を見あわせ、ため息をつく。 「おれが首相だったら、とうに政権なんて投げ出してるね。ああまで言われて、それでもまだ、ぼろぼろの政権にしがみつくのか」 「神経の太さが、おれたちとはちがうんだよ。いや、神経なんてないのかもしれんな。歴代の首相、みんな在任中に心労《しんろう》や重圧で髪が薄くなったのに、あの人はいまだに髪黒々としてるもんなあ」  そういう皮肉の声も、大きくはなかった。大新聞の政治部が、「ジャーナリズムではなくて政治業界紙だ」と皮肉られるようになって久《ひさ》しい。批判性を失ってしまい、政治家どうしの抗争や放言を躯もしろおかしく書きたてるだけで、記事の最後は「今後の成りゆきが注目される」と決まっている。  そういうなさけない状態でも、まだ気骨《きこつ》のある記者が死に絶えたわけではない。「かつては日本の政治家も私腹を肥《こ》やすことはなく、死ぬときは一文なしという人もいた。これをどう思うか」とつめよる記者がいる。  そんなことをいわれても、首相は「へえ」と思うだけであろう。彼は政治家ではない。政治屋でもない。政治業者である。業者というものは、自分の職業をとおして利益をえなくてはならないのである。自分の財産をへらすなど、商売人として、あってはならぬことである。  その緒果、首相の私邸や別荘の家賃を合計すると、首相の一年間の収入を超《こ》えてしまう、というようなことがおこる。これは首相が、収入を過少申告して脱税しているか、政治資金を私生活に流用しているか、どちらかということになる。その点について野党議員が質問しても、「私生活のことをあげつらうとはけしからん」と、封殺されてしまう。近代民主国家の首相や大統領は、こと収入と支出に関してプライバシーなどないのだ、という常識すら、この国の政界では通用しないのである。  ただ、「政治家は清潔でありさえすればいい」という考えも、いささか危険である。フランス革命期のロベスピエールとか、宗教改革時代のカルヴァンとか、日本では江戸中期の松平《まつだいら》定信《さだのぶ》とか、ものすごい思想弾圧や恐怖政治をおこなった政治家は、清廉潔白《せいれんけっぱく》が売り物だったからだ。むずかしいものである。もっとも、日本国首相の場合は、むずかしいなどという以前の問題で、幼稚園児に「悪いことしちゃいけません」というレベルであるが。  レディLという異称を持つバトリシア・S・ランズデール女史は、首相に面会するために、三分以上待つ必要はなかった。彼女は駐日アメりカ大使にひとしい待遇を受けていた。駐日アメリカ大便はレディLを嫌っている。というより、正式の外交ルートを無視して暗躍したり活動したりするマリガン財閥のやりくちを嫌っているのだった。嫌ってはいても、反対したり妨害したりはしないから、駐日アメリカ大使は、その地位と、それ以上のものとを、失わずにいられるのである。 「やあやあやあやあやあやあ、お待たせしました、ミス・ランデル[#「ランデル」に傍点]」  美女に対して愛想がよくなることを、とがめるわけにはいかない。男の本能というものである。レディLの姓を勝手に縮めるのも、悪気があってのことではない。この男に何も期待しなければ、腹もたたないはずであった。ただ、この狡猾《こうかつ》そうな上目づかいは何とかならぬものか。  まあ、いい。べつにこの男を恋人にするわけでもない。彼の持っている権力を利用するだけのことだ。感情と目的の混同を、レディLはいましめた。ほとんど完襞な計算にもとづいて、彼女はたくみな日本語で話を進め、日本人であるところの竜堂家の四人兄弟が、西側自由世界にとってきわめて危険な存在であると告げた。 「その、リュードー・ブラザーズとやらを、日本の警察に逮捕していただきたいのですわ」  レディLがいうと、首相は唇の両端をつりあげるような笑いかたをした。ことさら大物ぶっているわけでもない。当人はお愛想笑いのつもりであろう。 「日本は先進国で民主主義国家でございますからなあ。何の罪もないのに逮捕とか拘禁《こうきん》とかいうわけにはまいりませんですな。たとえ祖父の代以来、危険思想の家系だと申しましてもな」  竜堂兄弟の家系について、すでに調査はほどこしてある。そのことを、さりげなく首相は告げたのだった。レディLの要請を拒否はしないが、せいぜい高く買わせてやろう、という意図が明らかである。レディLは声と気分をおさえ、彼らはアメリカ軍基地を襲撃したテロリストと見られる、と告げた。 「なかなか興味ぶかいお話ですなあ。私としては、関心をまったく持たぬというわけにはまいりませんが、何しろアメリ力軍基地の内部で何がおころうと、私どもは手を出さぬ、これがもうおとなどうしの約束と申すものでしてな」  えへらえへら、としか形容できない笑いを、首相は浮かべた。 「彼らの犯行の証拠となるような兇器とか、ございますかな」 「兇器など、あるわけがないわ。彼らはすべて素手でやってのけるのですからね。もっとも、戦後日本の冤罪《えんざい》事件を見てみると、日本の警察は、ありもしない兇器をでっちあげるのが、お得意のようですけど」  首相の両眼がすっと細まり、白い光を放った。肉食の猿のような不気味な表情は、一瞬で消え、空虚なにこやかさがもどっている。レディLはさりげなく前言を訂正した。 「まあ昔のことで、いまはそんなことはありませんわね」 「そうです、共産主義独裁国のようなことはありませんよ。日本は自由で民主的な先進国ですからな。ヘヘへ。日本とアメリカが手をたずさえて、世界の自由と正義を守らねばならんですのでな」  この論法は、他の人からもかつて聞いたことがある。だが、いまは、そんなことはどうでもよい。結局、最終的手段はひとつしかなかった。餌《えさ》を投げ与える。これにつきる。 「合衆国は日本政府が国家秘密法を制定するにあたって、全画的にバックアップしましょう。悪いお話ではないと思いますけど」 「はあ、ありがたいですな」  首相の反応は消極的だった。国家秘密法の制定は、国内右派勢力を喜ばせるが、首相個人が一円の利益もえるわけではない。そのことにレディLも気づいた。他に二、三の条件を出して、彼女は目的を達成した。この間、一五分ほどである。       ㈼  埼玉県|草加《そうか》市の一隅にある虹川耕平《にじかわこうへい》氏の住居では、三人の男がダイニング・キッチンのテーブルについて、昼間からビールをあおっていた。テーブルの下では、雑種の子犬が皿のミルクをなめている。旧式のクーラーがフル稼動しているが、音の割には涼しくならない。  三人に共通するのは、男性、二九歳、独身ということだ。この家の主人は警視庁刑事部つとめの警部補である。客のひとり、蜃海三郎《しんかいさぶろう》氏は国民新聞に勤務する記者。もうひとりの客、水池真彦《みずちまさひこ》氏は陸上自衛隊の二尉である。それぞれりっぱな職業人であり、善良な市民である、と、当人たちは思っている。ちなみに、テーブルの下にいる子犬は松永良彦《まつながよしひこ》氏といって、水池氏の友人である。  水池氏は先夜、|戦車のっとり《タンク・ジャック》事件に関与して、自分から自衛隊を飛び出した。転がりこんだ先が旧知の虹川氏宅である。はた迷惑な男だが悪びれもせず、賓客《ひんきゃく》づらでビールを飲んで、「このごろのビールは味が薄い。日本人の舌がだめになる」などとほざいている。彼は何杯めかのグラスをあけると、テーブルの下にいる友人に相談を持ちかけた。 「さて、これからどうしよう。どう思う、松永?」 「わん」 「犬に尋《き》くな、犬に!」 「あ、虹川、お前、松永を差別するのか。お前も血統書つきでないと犬じゃないと思う手合《てあい》か。いやな奴だなあ」 「いやな奴はおたがいさまだ。それにしても何とも暑いな。温室効果ってやつか、これが」 「湿室効果じゃないだろ。クーラーが古いんだろ」 「やかましい、三杯めにはぐっと出す居候《いそうろう》が」  いわゆる「温室効果」というものは、地球の環境が悪化しつつある状態を警告するものとして、以前から有識者の間で問題とされていた。だが、たとえば日本の国会で、「温室効果によって地球の環境が破壊されつつある」と発言した野党の議員が、与党から嘲笑と罵声をあびせられたように。社会の多数からは無視されていたのである。  それが一九八八年の末あたりになると、「温室効果」という言葉は、すっかり一般化してしまった。つまり、工場や自動車や火力発電所から排出される二酸化炭素が地球をすっぽり包《つつ》んでしまい、太陽からの熱を吸出する一方で、地上の熱は外に逃がさない。かくして日本国の気象庁の気候問題|懇談会《こんだんかい》によれば、「地球の気湿は三・五度C上昇し、南北両極の氷が溶《と》けて海面は一・一メートル上昇する」とある。事実ならたいへんなことだ。  ところが、ここに奇妙な符合がある。一九八八年という年は、日本をふくむ世界各地で、原子力発電に反対する運動が、急激に盛りあがった年であった。これは何といっても、一九八六年四月にソ連のチェルノブイリで発生した原子力発電所の大事故が、しだいに実態を明らかにされていき、人々の危機感が高まっていったからだ。  そのころから、つぎのような意見が目だちはじめた。 「原子力発電は石油や石炭のような化石燃料とちがって二酸化炭素を放出しない。だから温室効果をおこさないためには、原子力エネルギーを使うべきである。その原子力発電に反対するのは、温室効果を促進し、地球の環境破壊に加担する行為である」  つまり、 「原子力発電に反対する者は、環境の敵、地球の敵である!」  ということになる。この論法は正しいだろうか。  アメリ力合衆国、ミシガン州立大学の農業試験所長シルバン・ウィットアーという人によれば、「二酸化炭素が増加すれば、植物の生長がうながされる。生長した植物は、光合成によって、二酸化炭素を酸素と炭素に還元するから、二酸化炭素のみが際限なくふえつづけるということにはならない」という。  また同じくアメリ力の国立水保全研究所に勤務する物理学者シャーウッド・アイドソー氏によれば、「かりに大気中の二酸化炭素が現在の二倍にふえても、世界の気温は○・二五度Cていどしか上昇しない。そんなものは地球の通常の気温変動の範囲内のことだ」という。  どちらが正しいのだろう。  現在の人類、ことに先進国民と自称する人々が、石油を浪費し、森林を破壊し、水と大気を汚染し。地球の環境を荒廃させつつあることは事実であり、当然、反省すべきであろう。その結果、エネルギーのむだつかいをへらし、むやみに樹木を伐採《ばっさい》することをやめ、自動車の排気ガスをへらすことができれば、けっこうなことだ。一九八九年、「ハーグ宣言」などによりフロンガスの使用が全面禁止にむかったのは、人類の理性がたしかに存在することを示すものであった。ところが、原生林を切り開いて自動車道路をつくり、珊瑚《さんご》礁をたたきつぶして空港を建設するような計画を強引に進めておいて、「環境を守るために原子力を使おう」というのは、すこしおかしいのではないだろうか。  一九八九年、日本の科学技術庁は、「原子力発電反対運動に対抗するための宣伝工作費用」として、一〇億円という巨額の予算を獲得した。これは前年度予算の五倍である。つまり、「原子力発電は安全である」ということを新聞、雑誌、TVで宣伝するわけで、協力してくれる文化人には多額の報酬が支払われる。一部の文化人にとって、原発賛成はいい商売になるのだ。  なお、電力会社によっては、女子社員を原子炉近くの管理区域にまで行かせて、原子力発電の安全性をPRすることがある。こういうのを、昔からの日本語で「猿芝居《さるしばい》」という。上役の命令にさからえない弱い立場の社員に、そんなことをさせるのは卑劣というものだ。電力会社の社長が、原子力発電所の敷地内に社宅を建てて、家族といっしょにそこに住みついたら、「原子力発電所は危険だ」などという者は、ひとりもいなくなるだろう。何億円も宣伝費をかけるよりも、よほど説得力があるというものである。できないのは不思議だ。彼らは「日本の原子力発電所は絶対に事故をおこさない」と主張しているのだから、そのていどのことができないはずはない。もっと辛辣《しんらラ》に、「東京の都心部に原発を建てたらどうだ、絶対安全なのなら」と主張する人たちもいるのだから。 「現代文明の行方はともかくとしてだ」  蜃海《しんかい》がハンカチで顔じゅうをぬぐった。 「あんたたちの行方をどうするかだ。口をぬぐってもとどおり体制内エリートにもどるわけにはいくまい」  水池《みずち》が、ビールの泡をつけたまま口を開いた。 「だから三人で組んで、日本のマスコミと警察と自衛隊を乗っとろう。これだけおさえとけば、何だってできるって。日本征服なんぞ軽いもんだぜ」 「税務署を忘れてるぞ」 「う、そうか、そいつは気づかなかった」  真剣に考えこんだ水池を無視して、虹川《にじかわ》は蜃海に肩をすくめてみせた。 「どうも、妙なことになってしまってるが、結局、問題はあの竜堂兄弟だ。何だってタンク・ジャックなんてことになったのか。ここにいる不良自衛官は、いっしょになって騒いだだけで、そもそも最初に教唆《きょうさ》したわけでもないというし……」  虹川は、じろりと居候《いそうろう》を見やった。蜃海が何か言いかけたとき、当の水池が勢いよく身を乗り出した。 「おい、竜堂兄弟ってのは四人組なんだな」 「そうだが……」 「四人兄弟に従姉妹《いとこ》を加えて五人だろ。おれたちは三人。あわせて八人になるな」 「はい、正解ですね。水池君には二重丸をあげましょう……で、それが何だというんだ」 「八人いれば南総里見八犬伝《なんそうさとみはっけんでん》ができる」 「…………」 「そうか、この作品はそういう構想を持っていたのか。ふむ。やっとわかったぞ」 「誰にむかって言ってるんだ、この男は?」 「気にせんでくれ、蜃海さん。水池は昔からそうでな、戯言《たわごと》と譫言《うわごと》をとったら、こいつには女好きしか残らん」  水池は脱走自衛官である。虹川は現職警官であるくせに、彼をかくまっている。蜃海は公務員ではないが、事情を知っても警察に通報しない。三人そろって逮捕されても文旬はいえないし、国家秘密法でもつくられた日には、あわせて三九段の階段を上ることになりかねない。  |TV《テレビ》ニュースによると、現在、首都圏には一万二〇〇〇人の自衛隊員と三万六〇〇〇人の警官が動員され、戒厳令にひとしい状態がつづいているという。自動車はかたはしから臨検され、すこしでもさからえば公務執行妨害で逮捕されて、今日の朝から昼までですでに逮捕者が五〇〇人をこしたとニュースは伝えた。水池が鼻で笑った。 「ばかなことやってやがる。今日だけで留置場がパンクするぜ。明日からどうする気だ」 「刑事部長がいってたがね、現在の日本の繁栄を、どうも心から信じることができないとさ。刑事部長が子供のころ、日本は第二次大戦で惨敗して、国じゅう焼野原だった。四、五十年でいつのまにか超大国になっちまったが、逆にいうと、あっというまにまた焼野原になっても不思議はない、とね」  TV画画にそびえたつビル群をながめながら、虹川が語ると、めずらしく水池がまじめに返した。 「しかし、江戸時代初期の浪人たちも、そう思っていたかもしれんぜ。泰平の世なんて、長くつづくはずはない。いつかまた乱世が来る、と……」 「ところが結果的に、泰平は二五〇年もつづいた。江戸の中期、後期なんて、ろくな人材もいなかったのに、矛盾だらけの世ながら、とにかく平和はつづいた。まあ現在の日本もそうなるかもしれん」  蜃海があごをなでた。 「ただ、あのころは平和にせよ繁栄にせよ、国内だけで完結していた。鎖国の世だからな。いまはそうじゃない」  三人は何となくだまりこみ、通る人もすくなくなった都心部の光景を、TV画面のなかにながめやった。暑い。       ㈽  二〇代も終わりに近い三銃士(あるいは「隠し砦《とりで》の三悪人」)が、東京の北郊で、まじめだか不まじめだかわからない会話をかわしている間、竜堂家の若い家長は、地下の書庫にたてこもって祖父の蔵書を引っくりかえしていた。汗まみれになって、ではない。本来、夏の地下は地上より涼しいし、二万冊の蔵書を保管するため、人間たちの部屋より早くエアコンが設置されたのだ。いずれ嵐が来る。それはわかっている。その前に、さまざまなことを調べておきたかった。余の夢に関して。またそれに関係する歴史や神話や伝説について。とくに道教関係の本を、始はひっくりかえしてみた。  道教と日本の神道には共通点がある。実在の人物が神として祭られるということだ。日本で菅原《すがわらの》道真《みちざね》が「天神さま」になり、平《たいらの》将門《まさかど》が「神田明神」に祭られている。道教の神々でいうと、「関聖《かんせい》帝君《ていくん》」、略して「関帝」というのは、「三国志」の関羽《かんう》である。「太上老君《たいじょうろうくん》」とは老子《ろうし》である。「二郎真君《じろうしんくん》」とは、いくつか説があるが、秦《しん》の時代に長江上流の治水につくした李冰《りひょう》の次男という人か、隋《ずい》の時代に河中の蛟《みずち》をたいじした趙煌《ちょういく》か、どちらかだろう。どちらにしても、治水に関係のある人だ。「崔府君《さいふくん》」とは、唐の初期の人で、名裁判官として知られ、「昼は人界のことを、夜はあの世のことを正しく裁《さば》く」といわれていた。  むろん、それ以外の神もいるわけで、「北斗真君《ほくとしんくん》」とは北斗七星を神格化したものであり、「南極老人星《なんきょくろうじんせい》」も星を神格化したものだ。この神さまは二頭身の老人で、大酒飲みだが、平和な時代のシンボルだそうである。  宋の徽宗《きそう》皇帝といえば、「水滸伝《すいこでん》」や「水滸後伝《すいここうでん》」にも登場する一二世紀前半の皇帝である。個人的には善良で、芸術家としての感性と才能にめぐまれ、とくに絵画と書道にかけては、歴史上、一流の名人であった。ただ残念なことに、一国の君主としては無為《むい》無力で、政治を腐敗させ、国内各地に叛乱をおこさせた末に、金《きん》国軍の侵入を受けて国を滅ぼしてしまう。  この徽宗皇帝が、四海竜王を、地上界の王に封じている。青竜王を広仁《こうじん》王に、紅竜王を嘉沢《かたく》王に、白竜王を義済《ぎせい》王に、黒竜王を霊沢《れいたく》王に、というわけで、竜王を地上の王朝が神として公認したことになる。「皇帝なんかに公認してもらう必要はねえよ」と、竜堂終ならいうことであろうが。  とにかく皇帝権力が竜王の存在を公認したのは一二世紀のことだ。それはひとつはっきりした。つぎに、余の夢にあらわれた怪物「蚩尤《しゆう》」について見てみよう。 「十八史略《じゅうはちしりゃく》」や、その原資料のひとつである「歴世《れきせい》真仙《しんせん》体道《たいどう》通鑑《つうかん》」などによると、黄帝と蚩尤の戦いは、つぎのようにおこなわれたという。  蚩尤は銅の頭、鉄の額、牛の蹄《ひづめ》を持ち、鉄石を好んで喰《くら》う怪神であった。不死身で戦いを好み、組暴きわまりなかった。彼は黄帝にさからって兵をあげたが、その同志は、彼とおなじ容貌を持つ七二人の兄弟と、風伯《ふうはく》(風の神)、雨師《うし》(雨の神)などであった。これに対し黄帝も、四方の神人や、虎や熊のような猛獣を集めて部隊を編成し、こうして両者は「啄[#原本ではさんずい]鹿《たくろく》の野」という平原で決戦したのである。  蚩尤とその軍隊は強かった。黄帝は「九たび戦って九たび勝たず」、つまり最初は負けっぱなしであった。風伯は暴風をおこし、雨師は豪雨を降らせ、さらに百里四方にわたる濃霧をおこして、黄帝の軍を迷わせた。濃霧のなかから怪物や妖獣が出没し、さんざんに黄帝の軍をいためつける。  黄帝は、軍師の風后《ふうこう》に相談した。ちなみに、神話や伝説もふくめて、この人が中国史上最初の軍師ということになる。ただし「軍師」という語が最初に公文書にあらわれるのは、後漢の末期、西暦二一四年に劉備《りゅうび》が諸葛亮《しょかつりょう》に「軍師将軍」という称号を与えたときである。それはともかく、風后は「指南車《しなんしゃ》」を発明した。車の上に人形が立ち、その指さす先はつねに南を向く、というもので、磁石の性質を利用した方向探知システムである。この指南車によって、黄帝は軍を正しく動かすことができ、何とか危機を脱することができた。  それでもまだ勝てたわけではないので、風后と相談して西王母《せいおうぼ》に祈ったところ、使者である九天玄女《きゅうてんげんにょ》を介して「陰符経《いんぷきょう》」とかいうありがたい書物をもらった。それをもとに、ついに蚩尤を破って天下を平定したという。「陰符経」とは、兵法や白魔術の秘伝書だろう。  以上のような戦いについて、「蚩尤とは、金属でつくられたロボットであり、超古代の中国において、現代の科学をしのぐテクノロジー戦争が展開されたのだ」と主張する人もいる。このような論議の正誤を判断するのは、たいへんにむずかしい。一方は、現代の常識に縛られて、伝説をあらたに見なおす柔軟さを失っているかもしれない。もう一方は、ともすれば最初から結論をかかえ、その結論につごうよく伝説を拡大解釈しているかもしれない。たとえば「ムー教信者」などにはよくあることだ。  いずれにしても蚩尤《しゆう》は黄帝に敗れた。敗れた後どうなったかという点だが、じつはそこがさっぱり明らかではない。すくなくとも、「処刑された」と明記された記録はないようだ。七二人もの兄弟も、いったいどうなったやらわからない。まあ神話や伝説に、完全な記録性を求めるのがむりなのだが、蚩尤が余の夢に出てくる以上、気になることだ。 「兄さん、ほどほどになさらないと、もうそろそろ夜ですよ。冷房にあたりっぱなしで、身体をこわします」  すぐ下の弟の声がして、始の目の前に、盆が差し出された。冷たい麦茶のカップと、水ようかんの小皿が載っている。始は腕時計を見た。どうやらこの日、彼は午後をずっと地下室ですごしてしまったらしい。てれくさそうに礼をいって盆を受けとる。始から、蚩尤についての説明を受けると、続は形のいいあごに片手をあてた。 「でも、たとえ処刑したと書いてあっても、全面的に信用できるわけじゃないでしょう」 「そりゃそうだ。だが、処刑したと明記してあったほうが、後世の人に安心感を与えることはできたはずだと思うんだが……おれの考えが浅いのかな」  飲みほした麦茶のカップを片手に、始はもう片手で古書のべージをめくった。 「長期間にわたって、中国の伝説に登場しつづけてはいないんですか、螢尤は」 「出て来るのは、共工《きょうこう》という悪神だ。ちょこちょこと中国の超古代史に出てきては、悪事を働いて追放されている」  共工という神は、「人面蛇身朱髪《じんめんだしんしゅぱつ》」と記されている。人間の顔をした蛇。手はあったのかどうか。かなり気味の悪い姿をしたこの怪神は、黄帝の孫|※※[#「山」の下に「而」を置いて偏として、その右に「頁」そして「王」偏に「頁」]《せんぎょく》の時代にあらわれ、帝|尭《ぎょう》の時代にあらわれ、帝|舜《しゅん》の時代、帝|禹《う》の時代とあらわれては討伐されている。その出現する時代は、前後一〇〇〇年にもおよぶ。 「兄さん、こう考えてみたらどうでしょうね。共工は蚩尤《しゆう》の参謀役というか、とにかく有力な部下で、蚩尤が復活するための策謀をめぐらしつづけていた、というのは」 「おもしろいが実証する資料はどこにもないそ」  水ようかんを口に放りこんでから、始は、自分の記憶ちがいに気づいた。水ようかんをのみこんでからつぶやく。 「またしても『補天石奇説余話《ほてんせききせつよわ》』か」 「補天石奇説余話・天篇八」に、たしかこういう文章があった。「共工は蚩尤の余類《よるい》にして常に倶《とも》に奸《かん》を謀り倭[#原本は「禾」の部分が「立」]《ねい》を為《な》せるものなり……」これはつまりそのまま続の意見を首肯《しゅこう》するものではある。とはいえ、そのまま信じるより、すこし解釈を加える工夫《くふう》をしてみようか。 「だが、こう考えてみる策《て》もある。つまり共工とは神の名ではなくて、螢尤を崇《あが》める人々の巣団ないし組織だったという。これだと、長期間にわたって出現と討伐を繰りかえした説明がつく」 「ああ、それ、いい線だと思いますよ。ぼく、賛成します」 「あたっているかもしれない……だが、あたっているからといって、それが何の意味を持つんだろうな」  始の声は、苦《にが》みをおびた。自分たちの出自《しゅつじ》を知ることができればよいとは思うし、それに先立つ数千年、数万ヵ月。数百万日の歴史を知ることには、知的快感がともなうが、一方では奇妙な虚しさを禁じえない。自分たちは竜に変身する。三人の弟はすでに変身した。いや、じつは竜が人間に化けているだけかもしれないが、とにかくそういう存在が実在する以上、歴史に対する合理的解釈など放棄して、どんな異変や怪物でも、そのまま受け容《い》れるべきなのだろうか。 「また悩んでますね、人類の敵の総大将は」  やわらかく続が笑い、散乱した厚い本の何冊かを積《つ》みあげて、腰をおろした。 「できることがあれば手伝いますよ」 「手伝ったって、おもしろくも何ともないぞ」 「兄さんの表情の変化を見てたら、けっこうおもしろいですよ」 「勝手にしろ」  さて、竜を英語でドラゴンという。学術的な比較論考はさておいて、一般的にはそう解釈されている。東西古今、竜に関する神話、伝説を集めていけば、その題名だけで分厚い本ができあがるだろう。  東洋においても西洋においても、竜は巨大な力の所有者とされていた。ただ、何度でも確認しておくべきことは、東洋においては神聖にして偉大な存在であるのに、西洋では悪の権化とされているという、その落差である。  あるいは、つぎのようにも表現することができるかもしれない。「多神教世界における善神。一神教世界における悪魔」と。  旧約聖書に登場してイヴを誘惑した蛇のことは「サタンであり竜である蛇」と記されている。竜は反《アンチ》キリストであり悪魔の象徴というわけだ。かくして中世ヨーロッパでは、ドラゴンたいじの伝説があふれかえる。ジークフリートの竜たいじ。聖ゲオルグの竜たいじ。その一方で、古代ブリテンの聖王はアーサー・ペンドラゴン、「竜の子アーサー」と呼ばれていた。憎悪と恐怖と畏敬《いけい》。竜に対する人々の思いは複雑なようだ。そして、だいたいにおいてドラゴンは、古代から伝えられた秘宝を守護する役割をおびている。宝は、古代の知識や、美女である場合もあるが、とにかく望むものを手に入れるためには、ドラゴンを倒さねばならず、そして結果としてドラゴンは倒される。異形《いぎょう》の怪物も、人間の貪欲さの前には、滅ぼされてしまうのである。  東洋の竜も、悪役ややられ役としての一面を持ってはいる。「封神演義《ほうしんえんぎ》」の竜王や「西遊記」の竜は、たしかになさけない。だが、それは主人公を強く見せるための操作でもあった。竜王が本来、強者であったからこそ、それをやっつける主人公の強さがきわだつのである。  人々は竜にあこがれた。「水滸伝《すいこでん》」に登場する勇者たちは、「入雲竜《にゅううんりゅう》」とか「九紋竜《くもんりゅう》」とかいった異名を持つ。三国時代、蜀の趙雲は「子竜」という字を持った。いわゆる「四霊」とは古代中華帝国とその帝都を守る聖獣で、東の青竜《せいりゅう》、南の朱雀《すじゃく》[#googleでは「すざく」71300件、「すじゃく」919件、どっちも間違いではないようです]、西の白虎《びゃっこ》、北の玄武《げんぶ》である。「四海《しかい》竜王《りゅうおう》」というとき、青竜だけがそのまま残り、他はそれぞれ、紅竜、白竜、黒竜がとってかわる。やはり竜は他の霊獣に卓越する存在とみられていたのだろうか。  始が気にしている中国古代の神に、神農《しんのう》がいる。炎帝ともいう。「史記」によれば伏犠《ふくぎ》につづいて中国の王者となった。三皇《さんこう》のひとりである。  神農の母は、竜首人身の神の気に感応して、わが子を受胎したといわれる。竜首人身の神から、牛首人身の子が生《う》まれた。この話は何を意味しているのか。あるいは何を象徴しているのだろうか。 「どうも考えるほどに、ややこしくなるばかりだなあ」  日本の神話は、「古事記」や「日本書紀」で、よいにつけ悪いにつけ整理されてしまったが、中国の神話は、かなり無秩序で異説並列《いせつへいれつ》のままになっている。「史記」以降、歴代の王朝は史官を置いて、熱心に歴史資料を保存したが、残念なことに、神話や伝説への関心は薄かった。  超古代の中国は、現在よりずっと温暖《おんだん》湿潤《しつじゅん》で、黄河の地域にも、象や水牛や犀《さい》のような南方系の動物が棲息していたことは、地質学の研究によって判明している。海かと見まごう黄河の両岸には、暖帯の原生林が広がり、野獣が走りまわり、野鳥がとびかっていた。豊潤《ほうじゅん》な自然が文明化され、気候も寒冷化し乾燥化していくなかで、どれだけ多くの神話や伝説が失われていったことだろう。  ふと思いついて始は弟に尋ねた。 「外のようすはどうだ? あいかわらず戒厳令か」 「TVニュースで見ると、そうらしいですね」  至るところ警官と自衛隊員だらけだから、窃盗《せっとう》とか駐車違反とか酔っぱらいのけんかなどは影をひそめた。ただ、東京の厳戒体制が強まれば地方の警察力が手薄になるのは当然のことで、地方都市の犯罪や事故は増大している。まだ厳戒体制の開始から一週間はたっていないからよいようなものの、長期化すれば、いったいどうなることやら。 「ところで、トラブル・メーカーズは、いま何をしてる?」 「茉理《まつり》ちゃんを含めてのことですか、はずしてのことですか」  兄が返答に困っているようなので、続は笑って教えた。二階の六畳間の押入から蚊帳《かや》が出てきたので、終と余が和室で寝たいと騒ぎだして、いま蚊帳を吊ったり布団を敷いたり、年少組のふたりは枕の投げつけっこをしたり、二階はたいへんにぎやかだという。 「これであと浴衣《ゆかた》があれば完壁だというところらしいですね」 「そりゃほとんど温泉宿気分だな」  蚊帳を吊ると、子供たちはほとんどキャンプでテントを張った気分になる。枕投げをやれば、修学旅行気分だ。暑い夏の夜も、けっこう楽しかろう。 「で、悪童どもが和室に寝たら、茉理ちゃんはどこで寝るんだ」 「あれ、兄さんの部屋でじゃないんですか」 「続!」 「冗談ですよ、きまってるでしょ」  続が笑ったころ。お隣りの花井家では、夕食のテーブルについた夫人が鼻を鳴らしていた。 「わたしが蚊に喰《く》われながら見張ってるのに、いい気なもんだわ。でもいつかかならず、尻尾《しっぽ》をつかまえてやるわよ」 「熱心なのはけっこうだが、尻尾なんて最初からないかもしれんよ」  花井氏の声は疲れている。この熱帯夜に、脂《あぶら》ぎったボークソテーなど食べる気にならないのだが、そんなことは食欲|旺盛《おうせい》な妻の知ったことではない。 「いいえ、いつか尻尾を出すに決まってるわよ。隠したってむだだわ。人の噂も七十五日というでしょ」 「それは、悪事千里を走るというんじゃないかね」 「そういう言いかたも、地方によってはあるかもしれないわね」  平然として花井夫人は答え、ボークソテーの大きな塊を口に放りこんだ。三回|噛《か》んで、ぐっとのみこむ。脂で光る口に、今度は勢いよく御飯を放りこむ。パワーとエネルギーをたっぷりつめこんだ肉袋である。夫の抗議や異論など、鼻毛の先で吹きとばしてしまうにちがいない。と、玄関でチャイムが鳴りひびいた。たてつづけに三度というせわしさだ。 「誰《だれ》よっ、夕食中に」 「警察の者です」 「警察……!?」  らんらんと花井夫人の両眼が光った。幅広の身体をゆるがし、玄関へ飛び出しながら、自分の先見《せんけん》を誇る。 「ほら、ごらんなさい! ついに悪が減びるときが来たのよッ。隣りの過激派どもをつかまえにきたにきまってるわ!」 「おちつきなさい、欣子《きんこ》」  夫の声を、厚い背中ではじきとばして、夫人は玄関に出た。彼女の霊感は的中して、あらわれた刑事は、竜堂家のことを尋《き》きたいのだ、と述べた。ここぞとばかり、夫人は、隣人のあやしむべき点を、あること三割、ないこと七割の比率でまくしたてた。 「ほう、お隣りの一家は、それほど悪い連中なんですか」 「いいのは顔だけね」  不動の信念をこめて、花井夫人は言い放った。 「まあ顔がよければ、たいていのことをやっても赦《ゆる》されるけど、やっぱり、政府や警察の悪口をいったりしちゃいけないわね」 「ふむ、反国家的、かつ反政府的な思想の持主というわけですな。放置しておくと、社会の害になると」  刑事と名乗った男は、うれしそうに唇をゆがめた。 「日本という国のありがたみもわからず、悪口さえいえばいいと思いこんどるばか[#「ばか」に傍点]どもが多くて、こまったものです。そういう奴らを根絶やしにして、日本のすぐれた歴史と伝統が汚されぬようしたいものですな」 「がんばってよ、刑事さん。心ただしい日本民族は、つねに警察の味方よッ。何でもお手伝いするわ。お国と正義のためですものね」 「では、家のなかにはいっていて下さい。けっして外に出ないように。カーテンをしめて、外を見てもいけません。よろしいですな」  これは残念な申しこみであったが、刑事の眼が爬虫類《はちゅうるい》のような光りかたをしたので、花井夫人は、思わずうなずいてしまった。 「……あけて下さい。警察の者です」  やがて、形ばかりはていねいな、押しつけがましい声が、竜堂家の玄関付近でした。 [#改ページ] 第三章 逃げるときでも胸を張れ       ㈵  竜堂家の玄関のドアが荒々しくたたかれた例は、過去に何度もあった。祖父の竜堂|司《つかさ》は、反戦主義の「非国民」として憲兵や特高《とっこう》警察に何度も拘引《こういん》されている。司の息子であり四人兄弟の父親である維《つなぐ》の時代は、わりあい平穏であったが、始の時代になってから、この半年ほどは不穏だらけといってよい。 「警察です。ご協力をお願いします」  警察の「ご協力をお願いいたします」は、「協力しろ、さもないと」という意味である。先進国首脳会議のとき、検問への協力を拒否した人の運転免許証をとりあげ、「非国民!」と書きつけた例もある。女子高校生の通学カバンをあけ、自動車のトランクをあけさせ、捜査令状もなしに市民の部屋に踏みこんで押入れを開く。抗議や苦情はすべて「調べたがそんな事実はなかった」ですませてしまうのだ。 「あけますか、兄さん」 「踏みこまれるおぼえは山ほどあるからなあ。どの峰が問題にされているのか見当がつかんよ」  始は苦笑した。ドアや窓を閉めきったまま息をひそめているのは趣味ではない。ドアの鍵をあけた。  とたんに、ドアを蹴り破るような粗暴さで玄関に侵入してきたのは、三〇代半ばの男だった。始ほどではないが長身で、髪を短く刈《か》った、たくましい男だ。  いやな目つきだ、と、始は思った。ナチス・ドイツのゲシュタポとか、ソ連のスターリン時代の|GPU《ゲーペーウー》とか、権力機構の下っぱにいるサディストは、みんなこういう目つきをしている。自分が権力の側にいて、絶対安全な場所で、けっしてさからえない相手を痛めつけるようなことをしていると、人間はこういう目つきになるのだ。 「家宅捜索する」 「捜査令状は?」 「生意気いうな!」  ひと声|咆《ほ》えてから、薄く笑った。 「きさま、TVの刑事ドラマを見たことがないのか。悪党の家を捜索するのに、令状なんかいらねえんだ」  すでにそのとき、乱入した五、六人の私服警官が、土足のままあがりこんでいた。抗議する続の声を無視して、各室に勝手にはいりこみ、荒らしはじめた。二分もたたず、凱歌があがった。目的のものを「発見」したようだ。 「麻薬の不法所持、現行犯で逮捕する」  刑事の手に、白い粉をつめたビニール袋があった。 「さからえば公務執行妨害もプラスされるぞ。ま、麻薬不法所持に較《くら》べれば微罪だが、両方かけあわせて、ふふふ、拘留期限いっぱい、たっぷりかわいがってやるからな」  刑事は舌なめずりした。ビニール袋から滴《しずく》がしたたっているのは、トイレの水タンクのなかから「発見」したからだそうだ。自分たちで持ちこんだくせに、ご苦労な演技ぶりである。  麻薬とはね。舌打ちしたい気分に、始は駆られる。よりによって、幼児虐待と並んであらゆる犯罪のなかで一番恥ずべき罪名を持ち出してきやがった。相手の誇りを泥靴で踏みにじるようなやりくちではないか。  だが、奇異さも禁じえない。たとえば、「バトカー強奪の容疑」といわれたら、事実であるだけに、始としてはまことに困るのである。「うーむ、これはつかまってもしかたないかな」というところだ。それがまったく身におぼえがない麻薬事犯とあっては、冤罪《えんざい》としても薄ぎたなすぎる。「どうだ、承伏できんだろう、逃げろ逃げろ」とささやかれているような気すらする。何かの罠か? それにしても細工がすぎるような気がするが。 「始さん!」  声がひびいて、始は、あげた視線に、従妹《いとこ》の顔をとらえた。吹きぬけになった二階の手|摺《すり》から、始を見つめている。心配げではあるが、信頼感がそれを上まわる。三弟と末弟の姿も、彼女の左右にあった。乱入してきた刑事の姿に脅《おび》えもせず、トラブルを楽しんでいるらしいことは表情でわかる。終が、むしろ陽気に声をかけてきた。 「兄貴、どうする? おとなしくつかまるのかい」 「それもまあ、ひとつの生きかたではあるが、さてどうしようか」 「兄さんはソクラテスの柄《がら》じゃありませんよ。悪法も法だからしたがわねばならない、なんて思わないでしょ」 「ああ、構わないね」  答えたとたん、刑事の平手が始の頬《ほお》に鳴って、当人は無言だったが、弟たちが怒りの声をあげた。 「へらず口をたたくな」と、刑事が黄色い歯をむきだす。 「ひとつ教えといてやろう。このガキどもは、未成年だから教育正常化センターへ送りこまれることになる。親や先生やお上に、けっしてさからわない、いい子になるまで、外に出られると思うな。坊主頭にされて、命令があるまで口をきくことも、トイレに行くことも許されない。教育勅語《きょういくちょくご》を一日一〇〇回となえながら、はだしでドブ掃除をするんだ」 「そんなことが憲法で許されると思ってるのか。基本的人権はどうなる」 「人権?」  公安刑事は鼻先で笑った。 「きさまらみたいな非国民に、人権なんぞあるわけないだろう。教育正常化センターで根性をたたきなおされたら、きさまの弟たちも、人権がどうとかいう戯言《たわごと》を忘れて、はいつくばって教官の靴をなめるようになるんだ。非国民の孫にふさわしいじゃないか」  公安刑事は言いすぎた。始は無言のまま、一気に爆発したのだ。  公安刑事の身体は、階段に向かって吹っとんだ。階段の三段めにたたきつけられ、はねるように一階の床に転がりおちる。口もとが赤黒く染まっているのは、前歯を三本砕かれたからだった。突然の抵抗におどろいた他の私服警官たちが始に組みついた。顔面に肘《ひじ》うちをたたきこもうとする。脳天にむけて鉄製の手錠を振りおろす。常人なら昏倒《こんとう》し。一生、半身不随にされていただろうが、むろん始はそうはならなかった。始がふたり、続が三人を、ほとんど一瞬でなぎたおし、壁ぎわの床に積みかさねてしまう。階段下で、起きあがろうともがく公安刑事が、真赤な口をうごめかして、なお脅迫した。 「きさまら、こんなことをしてどうなるか、覚悟はあるんだろうな」  過去に何度も聞かされた台詞《せりふ》で、いっこうに竜堂兄弟は感興をそそられなかった。返事もせず、公安刑事の胸ポケットから警察手帳を抜きとり、拳銃を召しあげた。拳銃など無用の長物だが、警察手帳は何かと役に立つ。合計六冊の警察手帳が、竜堂兄弟の手にはいった。 「警察の機構も、ずいぶん変わったらしいな。いつから公安が麻薬をとりしまるようになったんだ」  公安刑事は怒りと屈辱で顔を紫色にした。兇暴なうなり声をあげたきり、身動きもできずにいる。 「兄貴たち、ずるいや、自分たちだけでかたづけるなんて」  乱闘に参加しそこねた終が二階から不平を鳴らすと、ようやく刑事はうめいた。 「こ、この非国民どもが!」 「非国民ですか。いい言葉ですね。あなたたちに愛国者と呼ばれるほど、悪いことをしたおぼえはありませんよ」  続の声は氷片をちりばめたようであった。 「第二次大戦のとき、日本の愛国者とやらがどんなことをしたか、アジア諸国の人たちに尋《き》いてみるんですね。やったほうはつごうよく忘れても、やられた人たちは忘れてはいませんから」  続の皮肉には答えず、公安刑事は、血まみれの口から、折れた歯を吐き出した。なお脅《おど》し文旬をつらねたのは、いっそ見上げた根性だ。 「きさまら、もう日本にはいられんぞ。どこへ逃げようと、かならず逮捕してやる。あとになって泣きわめいてもおそいぞ」 「続!」 「はい、兄さん」 「こいつの口をガムテープでふさげ。豚が日本語をしゃべるのを聞くと、おれたちの耳と日本語と、両方とも汚れてしまう」  公安刑事を見おろす始の目が、嫌悪感に満ちている。 「日本語というのは、大伴《おおともの》家持《やかもち》や西行《さいぎょう》法師や世阿弥《ぜあみ》が使った言葉だ。こんな奴に使われたんでは、美しい日本語が気の毒だからな」  兄の命令を、続は忠実に実行した、とはいえない。とっさにガムテープが見あたらなかったので、続はトイレのタオルを、公安刑事の口に押しこんだのである。雑巾《ぞうきん》でないだけましと思え、というところだった。 「みんな、出かける用意をしなさい。どうやらこの家にはいられなくなったようだ」  始の声を聞いて、二階で年少組はとびあがった。おどろいたからではない。 「やったやった、当分、学校をさぼれるぞ」 「まだ夏休みだよ。八月中に帰って来られるかもしれないよ、兄さん」 「そう簡単に、結着《かた》がつくもんか。自分の家で警官をなぐっちまったんだもんなあ。いよいよおれたち、悲劇の逃亡者だぜ。天下に家なきおたずね者、いいなあ」  悲愴感のかけらもない。だが、それでも気にかかることをふと思いだしたと見えて、終が尋ねた。 「それはそれでいいんだけどさ、兄貴、この家はどうするのさ」 「残念だが、家と土地を持っていくわけにはいかないな」  二万冊の本も、かかえてはいけない。残していって、茉理の母親に管理してもらうしかないだろう。いよいよ叔母には迷惑をかけるときが来たようだ。あらためて、いつかかならず、詫《わ》びと礼をさせてもらおう。  以前、預金を封鎖されたときから、竜堂家では銀行を信用せず、現金を用意してあった。茉理をふくめて五人、二ヵ月ほどは何とか生活できるていどの金額はある。あとは身のまわりの品をととのえればいい。五分もかからずに全員が旅装をととのえてホールに整列すると、始は公安刑事をあらためて見おろした。 「どうせ理解できやしないだろうが一言《ひとこと》いっておく」  始の声は低いが、刑事の耳によくひびく。 「国を愛するというのは、それはそれでりっぱな生きかたではあるが、たくさんある価値観のひとつであるにすぎない。他人にそれを押しつけてよいはずがない。まして、お前らがやっているのは、愛国という神聖不可侵の兇器を振りかざして、他人を支配し、薄ぎたない権力欲を満足させようと、ただそれだけのことだ。『民族の誇りをとりもどそう。祖国を愛しよう。伝統文化を守ろう』と一九三三年に叫んだのは、ナチス・ドイツのゲッペルス宣伝大臣だった。いま日本の文部省が、まったく同じことをいってるな。一〇年後の日本がどうなってるか楽しみだよ」  たまっていた怒りをすべて吐き出すように言い終えると、始は背を向けた。公安刑事は、憎悪の目で、始の広い背中をにらみつけた。口がきけたら、彼が一番大好きな、そして歴史上いちばん醜悪な日本語を使ったにちがいない。「非国民!」という、「万葉集」の時代にも「平家物語」の時代にも存在しなかった言葉を。だが、タオルで口をふさがれているので、くぐもったうめき声がもれただけであった。 「火の用心はちゃんとしたな」 「全部OKだよ」  長兄の問いに余が答える。ナップサックを背負って、すっかりハイキング気分だ。終も同様。はちきれそうなサックに、勉強道具がはいっていないことは明らかである。残る三人はそれぞれスポーツバッグをさげて玄関を出た。出たところで、長兄の命令にしたがい、ドアにむかって神妙に手をあわせる。生まれ育った家に、これまでお世話になりました、と、謝礼を述べたのだ。続が兄にささやいた。 「心配いりませんよ、兄さん。兄さんのいる場所が、すなわち竜堂家であり、ぼくらの家なんですからね」  弟たちを路頭に迷わせることになってしまった、という兄の胸中を読んでのことだった。  こうして、不幸な竜堂始氏は、職業に引きつづいて、家をも失うことになったのである。扶養家族はひとりも減らないというのに。家族みんなに慕われていることをうれしく思いつつも、「おれ、まだ二三なんだよなあ」と、ふと自分の年齢をかえりみる若い家長であった。       ㈼  首都圏に展開していた五万人弱の自衛隊員と警官が、すべて竜堂家の周辺に終結していたわけでは、むろんない。しかも、竜堂家周辺に動員された警官のほとんどが、事情を知らされていなかった。  四、五人の人影が夜道にあらわれたとき、ひと組の警官がすばやくその前後に立ちはだかった。「とまりなさい、どこへいくんだ」すると、背の高い青年が、警官の鼻先に黒革の手帳を突きつけた。 「このとおり公安の者だ。重要な任務だから、よけいなまねをしないように」 「はっ、し、失礼しました」  公安は警察機構内のタブーである。一九八O年代にはいって急速に秘密警察的色彩を強めた。警察署のなかに公安の部屋があっても、他の部署の人は入室を許されない。つねに中央からの指示で秘密のうちに動き、署長すらその行動に口出しできないのだ。なまじ公安のやりかたに異議をとなえたばかりに、左遷や失職の憂目《うきめ》を見た者が何人いることであろう。何かの犯罪がらみで、あやしい男がうろついているのを緊急逮捕して留置場に放りこんだら、それが公安刑事だったということがある。所轄の警察署にすら知られないよう行動しているのだ。よけいなことはしないにかぎる。たとえ、いくら奇妙なようすに見えてもだ。  警官たちは、あわてて彼らに道を開いた。グループが通過したあと、彼らも散開したが、なかのひとりが竜堂家の裏手の路地にはいったとき、小走りに駆ける人影に出くわした。竜堂家の三男坊は、うかつにも全財産のはいった財布を落とし、あわてて引き返して拾いあげてきたのである。 「おい、何だ、お前は!?」 「通りすがりの径しい少年だよ。気にしないでおくれよ」 「何だと、ちょっと待て!」  警官は、気にしないではいられなかった。腕を伸ばして、少年の肩をつかむ。つかんだつもりだった。その瞬間に、世界が一回転した。受け身をとる間もない。背中から路面にたたきつけられ、息がとまったところ、みぞおちに蹴りをくらって、たちまち悶絶してしまう。 「こづかいももらってない相手から、お前よばわりされるおぼえはねえや。納税者に対する礼儀をわきまえろ」  まだ一円の税金も払ってない身分のくせに、口だけ長兄の模倣《まね》をする。気絶した不運な警官の服をさぐって、警察手帳と制式拳銃をとり出す。拳銃を指先でくるくるまわしながらつぶやいた。 「これをとられたら、ずいぶん怒られるだろうなあ。やめた。弱い者いじめすることもないや」  終は拳銃と警察手帳を警官のそばに置くと、体重のない者のような軽快さで駆け出していった。  そのころ、花井家では、夫人が、何とか竜堂家のようすをたしかめようと苦労していた。カーテンの隙間に、肉の厚い顔を押しつけている。 「やっぱり何も見えないわねえ。あの刑事さん、非国民は根だやしにするっていったけど、根だやしはこまるわねえ。やっぱり美男子はちゃんと生かしといてもらわなきゃ。いくら愛国者でも、醜男《ぶおとこ》ばっかりになったんじゃ、つまらないからねえ」  顔の悪い愛国者と、顔のいい非国民と、どちらを選ぶべきか、花井夫人は真剣に悩んだ。だが、結論が出るのに、長い時間はかからなかった。 「やっぱり、男は顔よ。非国民は心さえ入れかえれば愛国者になれるけど、醜男はいくら愛国者でも、ハンサムになるわけじゃないものね」 「かわいそうに、竜堂家のご兄弟、刑事に顔をひどくなぐられるかもしれんぞ。お前、それでいいのか」  妻に対する皮肉と、隣人に対する同情をこめて、花井氏はいったが、花井夫人は動揺したりしなかった。 「ふん、あんたったら何も知らないのね。警察はりこうだから、なぐった証拠が残るようなことはしないのよ。だから顔じゃなくて腹をなぐることになってるの。まったく、インテリ面《づら》して、そのていどのことも知らないんだから」  花井夫人はバイオレンス小説でしいれた知識を披露《ひろう》し、ぐわっははは、と腹をゆすって笑った。笑いをおさめると、こっそり窓のカーテンをあけた。あけるなと命じられてはいたが、すこしぐらいならかまわないだろう。何といっても彼女は正義の味方で警察の友なのだ。積極的に協力してやるのだから、ほめられてもよいくらいではないか。  誰もとんできてとがめないので、花井夫人は大胆になり、窓ガラスをあけて両眼を外に出してみた。やはりとがめる者がいないので、花井夫人の行動は、さらに大胆になる。勝手口のドアをあけ、サンダルをつっかけて外に出ると、暗い庭から竜堂家のようすをうかがった。寄ってくる蚊を追い払っているうちにがまんできなくなり、すばやく竜堂家の裏門に忍び寄った。あとから出てきた夫が、おどろいてとがめた。 「お前、他人《ひと》様の家に勝手に……」 「何いってんのッ、土地はもともと誰のものでもないのよッ。それを人間が勝手に囲ったりふさいだり、とんでもないことだわ」  自分の行動を正当化するための理屈なら、花井夫人はいくつでも、いくつでも考え出すことができるのである。彼女は日本一肥満した女忍者《くのいち》と化して、音もなく竜堂家の玄関に肉追し、鍵のかかっていないドアをあけてみた。  そこには、汗くさい壮年と中年の男たちが、半ダースほど、魚河岸《うおがし》のマグロみたいに転がって、苦痛のうめきをコーラスしていた。何ごとがあったかは、アクション刑事ドラマが好きな花井夫人には、すぐにわかった。 「あらまあ、警官ってあんがい弱いのね。これでほんとに人類の敵と戦えるのかしら」  小声でつぶやいたつもりだが、ホールじゅうに、ふとい声がひびきわたって、負傷者たちは精神の傷口にタバスコを振りかけられた。なかのひとり、つまり先ほど花井家を訪れた公安刑事が、赤い口をようやく動かして、タオルを吐き出し、花井夫人に呼びかけた。 「お、奥さん、いいですか、この件は絶対、他人にはしゃべらんように。もしマスコミに洩《も》れたら、奥さん、ご家族にたいそう迷惑がかかることになりますよ」  脅《おど》しつける。権力が武器として通用する相手には、どこまでも強く出ることができるのである。もっとも、この場合、花井夫人のほうには、脅迫されているという自覚はない。おなじ秘密を守る同志として信頼されているのだと思い、感激して胸をたたいた。 「まかせてちょうだい。けっして誰にもしゃべらないから。わたしは法と秩序を愛する、りっぱな日本人ですからね。信用してくれてうれしいわ。うおほほほほほほほ……」  そう笑って花井夫人は、どすどすと床を鳴らし、外に出ていった。彼女は約束を守った。夫を含めて誰にも一言もしゃべらなかったので、不幸な公安刑事たちは救急車も呼んでもらえず、不審に思った公安部の同僚たちが直接やってくるまで、苦痛に耐えて寝ころがっていなくてはならなかった。むろん、花井夫人に苦情を申したてるわけにもいかなかったのである。       ㈽  世田谷区上用賀にある首相の私邸では、夜一〇時ごろまで、この国の最高権力者たちが総選挙の時期について話しあっていた。というより、与党の幹事長がほとんどひとりで唾《つば》をとばしながらしゃべりまくり、他の人間はうなずくばかりだった。この幹事長は、満月じみた丸い顔に縁のふとい眼鏡をかけた濁声《だみごえ》の男で、与党の長老議員が、政治の腐敗にたまりかねて、 「これほどまでに政治家が金に汚染されていては、私は恥ずかしくて町を歩けない」  と歎《なげ》いたとき、 「私は平気で歩いている」  と答えた男である。蓋恥心の欠落していること首相以上で、しかもそれを隠そうともしない。「政治家が金銭を必要とするのは、政治家にたかる国民がいるからだ。国民が悪い」と主張しておいて、九州の参議院議員の補欠選挙で与党が惨敗すると、「あれだけ大金をばらまいたのに、何で与党《うち》に投票せんのだ」とどなったといわれる。政治家としてのセンスも見識もゼロ以下と思われるこの人物が、党内のナンバー2なのだから、首相としては、自分の権力の座にさして不安をおぼえる気になれないのだ。 「鎌倉の御前《ごぜん》」こと船津《ふなづ》忠厳《ただよし》老人が生存していたころは、この怪異な老人の小指一本で、いつ首が飛ぶか、びくびくしていなければならなかった。だが、この六月に老人が富士山麓で怪死をとげて以来、日本の地下帝国は統一どころか四分五裂の状態である。首相としては、こわいものなしの心境だった。首相自身が、政界引退の後に、地下帝国の主権者となる可能性もあるのだ。未来は昔のネオンのように明るくきらめいていた。  幹事長たちが帰ると、首相は、お茶も飲まず、二階の第二応接室にはいった。二時間も待たされていた客人は、ひとことも不平を鳴らさず、鄭重《ていちょう》に主人を迎えた。いや、鄭重などというものではなかった。 「そ、総理大臣閣下、このたびはまことに、何と申しあげてよいのやら、恐縮のかぎりでございます」  カーペットの上ではいつくばって額をこすりつけているのは共和学院の学院長である鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》氏であった。竜堂兄弟の叔母の夫であり、茉理の父親である。価値観の持ちようは、甥《おい》たちと正反対であった。 「まあまあまあまあ、くつろいでください、鳥羽先生。教育家としての先生の令名は、したしく耳にいたしておるところです」  愛想よく首相は靖一郎に椅子をすすめた。靖一郎は恐縮とおどろきで汗をかくほどである。彼は権力と権威にまるで弱い人間で、文部大臣にさえぺこぺこするのだから、首相に対しては、なおさらだった。おじぎをくりかえしながら静かにすわる。自分以上に卑屈な人間を前にするのは、悪い気分ではないらしく、またもともと気配りの人であるから、首相はたいそう島羽氏に親切であった。鳥羽氏のほうは、首相に「先生」といわれて、身体が無重力状態になるのを、かろうじておさえている。 「今後とも教育の正常化につくして下さいよ」 「ははーっ」 「ところで先生の甥《おい》ごさんたちのことですが……」  首相の声で、靖一郎は全身に大量の汗を噴き出した。どんな手きびしいことをいわれるかと思ったのだが、首相のつぎの言葉は、靖一郎が想像もしないものであつた。 「じつは私は、先生の甥ごさんたちを、政府の要員としてお迎えさせていただこうと、かように考えておる次第なのですよ」  靖一郎は、価値観がひっくりかえりそうな気分で、ニコヤカな首相の顔を見つめた。 「鳥羽先生の甥ごさんたちは、なかなかユニークな青少年のようですが」 「はっ、何と申しますか、反国家的な危険思想に毒されておりまして……日本人の風上にも置けないようなことを申したりします。まことにお恥ずかしいことで」 「いやいや、かえって頼もしい。私は彼らを、私直属の秘密捜査官にしたいと思っておりましてな」 「はあ、首相閣下直属の秘密捜査官、でございますか」  少年むけコミックのような話だ、と、鳥羽靖一郎は思ったが、むろん口には出さなかった。現実の政治や社会が、少年むけコミックより上等であるという証明はどこにもない。そのていどのことは、靖一郎でさえ知っている。知っているが反発しないところが、甥たちと靖一郎のちがいである。 「そこで鳥羽先生に、ちょっと協力していただきたいのですよ。国のため、世のためです。お願いできますかな」 「も、もちろんでございます。不肖《ふしょう》、鳥羽靖一郎、お国のためとあらば、生命も魂も惜しむものではございませんです、はい」  ……二〇分後、鳥羽靖一郎氏は、迎えの自動車とともにいずこへか出かけていった。首相は、あいかわらず機嫌よさそうに、一階の和室にもどってお茶を飲んだ。秘書官が尋ねた。彼は首相とレディLの対談に同席し、竜堂兄弟がマリガン財団に引きわたされる、という約束が成立したことを憶えていたのである。 「ですが、首相、マリガン財団との約束はどうなりますか」 「ああ、マリガン財団ね」  かるく首相は言いすてた。妙に自信ありげな態度が、秘書官の不安をそそった。それを看《み》てとったらしく、首相は、茶碗を掌《てのひら》でまわしながら答えをつづけた。 「彼らが彼らの要求をするのは、勝手というものさ。だが、私にも言分《いいぶん》があるからねえ。私が何も知ろうとしないで彼らのいうなりになると思っとるのかねえ」  短い脚を組みなおして、首相は、大物ぶった表情をつくった。 「とにかく竜堂兄弟とやらを手に入れることさ。その結果、あの鳥羽という男にいったとおり、官邸のほうで使ってやってもいいし、マリガン財団に売ってあげてもいい。マリガン以外にも財閥はあるしねえ、ヘヘへへヘヘヘへ…………」  世のなかには、猛獣をあやつるつもりで、頭から喰われてしまう人間もいる。そうちらりと思ったが、秘書官は黙っていた。       ㈿  午前三時という時刻でも、事実上の戒厳令下にあっても、東京の要所要所は、なお灯火が輝いていた。山手線や上越線、東北線などが集まる上野駅もそのひとつで、スキーシーズンに比べれば閑散としたものではあるが、公園口とよばれる一帯には、旅行者の姿が絶えていなかった。 「北方某国の特殊工作部隊が、首都圏に潜入した模様。警察と自衛隊が出動しています。市民の皆さんは、なにとぞご協力をお願いします」  深夜TVが、そのニュースをくりかえして流している。「いやねえ、ぶっそうな世の中になったもんだわ」と、鳥羽茉理がつぶやき、缶入り麦茶を口に運んだ。  一見、夏山にでも出かける五人兄妹、という図である。だが、この五人組は、おそらく日本一危険で過激で反政府的なグループであった。良家の坊ちゃん嬢ちゃんという外見の下に、ハリケーンが五ダース半ほどひそんでいる。それとも肉食性恐竜一個連隊というところか。罪のない顔つきで麦茶を飲んだり、ハンバーガーをかじったりしながら、今後のことを話しあっているのだが、内容は平和主義とは縁がなかった。 「いっそ首相官邸に乗りこんでさ、首相を人質にしちゃったらどうだろう」  終の提案に、小首をかしげつつ異議をとなえたのは余だった。 「首相を人質にとったって効果あるかなあ。これさいわいと、まとめて射殺されちゃうかもしれないよ」 「そのときは、死ぬのは首相だけですよ」  極悪非道な台詞《せりふ》を、ものやわらかに続が口にした。長兄であり家長であり、竜堂・鳥羽連合軍の総司令官である始は、黙然と周囲をながめやっている。制服姿が視界を横ぎるたびに、来たか、と思うのだが、これまでのところ、見とがめられることもなかった。  弟たちは行先について勝手なことをしゃべりだしている。 「軽井沢がいいなあ、おれ」 「蓼科《たてしな》とか八ケ岳にしようよ」  それらの地名を耳にして、始はため息をつき、従妹《いとこ》に声をかけた。 「茉理ちゃん、こいつらに何とかいってやってくれよ」 「わたし、どうせなら野尻湖がいいな」  すまして口にしてから、茉理は、麦茶の缶を持ったまま笑い出した。 「ごめんなさい、冗談よ。でも、観光気分くらいでいるほうが、いいような気がするわ。暗くなったら、敵の思うつぼだもの。そう思うな」  洗面室に行ってくるわね、といって茉理が立ちあがると、余が同行を申し出た。従妹の言葉をかみしめながら、始は、TV画面を見やり、すぐ視線をそらせて考えこんだ。  始以外の四人は未成年だから、TV画面に顔が映るということはありえない。映るとすれば始だけであるはずだ。深夜のTVで自分の顔に対画するのも、あまりいい気分のものではなかった。  逃げまわるほどに一般市民に迷惑をかけることはわかっている。だからといって、おとなしくつかまり、四人姉妹《フォー・シスターズ》なり公安警察なりの実験やら拷問やら弾圧やらに甘んじるわけにはいかなかった。それは要するに、追うがわのサディズムと追われる者のマゾヒズムを満足させるだけである。そのように不毛な結末になるくらいなら、「逃げろ、しかして反撃せよ!」というのが、竜堂家の精神的バックボーンである。反撃するとき、やたらと被害が大きくなるのが問題だが。ただ、それだって、相手が追うのをやめれば、何ら問題はないのだ。平和を乱され、家を追われたあげく、罪の意識までせおいこむ義務はない。彼ら兄弟を追いたてるがわは、罪の意識などまったく持ちあわせていないのだ。  いっそ終が提案したように、首相を人質にでもしてやろうか。始が、ふとそう思ったとき、終がおどろきの声をあげた。「えっ、嘘《うそ》だろ」といったようだ。それにつづいて、続の手が兄の左|上膊部《じょうはく》をつかんでゆさぶった。振りむいた始の目に、いささか意表をつかれたような次男坊の表情が映った。 「兄さん、あれを見て下さい、あのTV!」 「どうしたんだ、余の夢に出てくる妖怪でもあらわれたか」 「似たようなものですよ」  いつもながら、顔に似ず辛辣《しんらつ》なことを、続は口にした。それでも声を低めたのは、思えば、茉理の立場に配慮したのである。 「鳥羽の叔父さんですよ、ぼくたちに何か呼びかけてます」  ものに動じないはずの竜堂始氏は、無言で眉をあげてTV画画に視線を送った。なつかしい。とはあまり思えない紳士風の顔が、彼らの名を口にしていた。 「始、続、終、余、それに茉理、どうか帰ってきてくれ。お前たちのやったことは、あまり感心ができんが、私としても、もっと話しあう余地があったと思っている。お前たちに寂しい思いをさせてしまったかもしれない。肉親としてもっと私は寛大な気持で、お前たちのひねくれた、いや、複雑な考えを理解してやるべきだったかもしれない。どうだろう、家へ帰ってこないか。けっして悪いようにはしないよ。いや、じつはいいニュースかお前たちを待っているのだよ。お前たちは幼いころはすなおでいい子だった。そのころの心を思いだして、どうだ、もう一度仲よくやりなおそうじゃないか」 「やめてくれよなあ……」  両手で頭をかかえて、終がうめいた。TV画面のなかで、鳥羽靖一郎は、無敵不敵の竜堂兄弟をげっそりさせる、という偉業に成功したのである。始と続は、うめく気にすらならなかった。たがいに視線を見かわしただけである。通りすがりのカップルの声が耳に流れこんできた。 「なあに、あれ。ハジメにツヅクにオワルにアマルだって。ばっかみたい」 「いいかげんな名前をつけたもんだ。親の顔が見たいよ。あんな名前をつけるから、子供がまともに育たないんだぜ」  あながち始は彼らの意見に反対ではなかったが、賛成の声をあげるほどのこともないので、黙々とチーズバーガーを噛《か》みつづけた。どんな状況でも、とにかく腹ごしらえはきちんとしておくことだ。空腹だと、体力もだが、思考の集中力や持続力が低下する。  今後どちらへ逃げるか、そう簡単に決心がつくものではなかった。上野へやってきたのは、「東京で犯罪をおかした者は、大部分が西へ逃亡する。北へ逃げることはめったにない」という犯罪心理学の話を聞いたことがあるので、その逆をいってみよう、と思ったからだ。もっとも、自分たちを犯罪者とみなすのは癪《しゃく》だが、逃亡者にはちがいない。  茉理と余が無事に洗面所から帰ってきたのは、鳥羽靖一郎氏の声涙《せいるい》ともにくだる演技が終わってからのことで、始は、いくつもの意味でほっとした。おそらくまた放送はおこなわれるだろうから、その前に、この場所を離れるとしよう。 「ホームに行こう。さしあたり仙台あたりに出て、それからまた考えるさ」  総司令官の指示に、異議は出なかった。弟たちと従妹《いとこ》は、それぞれの荷物を持って立ちあがった。それはまさに、よどんでいた池の水が流れ出すような瞬間だった。歩きだそうとした五人組の周囲に、むさくるしい私服の男たちがむらがってきたのだ。 「竜堂始だな。同行してもらおう」  始は返事をしなかった。竜堂家の家訓を守ったのである。「初体面の相手を呼びすてにするような奴は猿の仲間だから、返事をする必要はない」という項目だ。  始が沈黙しているので、猿どもは腹をたて、脅追がましく歯をむきだした。権力を背景としたおどしがきかないと、この種の猿は、たいそう機嫌をそこねるのである。 「おい、竜堂始、返事をしろ!」  もう一度だけ、という口調で相手はすごんだ。効果はゼロ。日本人としてはずばぬけて背の高い青年は、無礼な男たちを、雑草のように黙殺した。自分たちの無礼を棚にあげて、男たちはいきりたった。左右から始の腕をつかむ。同時に始の頸《くび》すじにもう一方の手をあて、力まかせにねじ伏せようとした。  無造作《むぞうさ》に、始は腕を振った。  男たちは柔道の有段者で、逮捕術も一級だったにちがいない。だが、そんなものは何ら意味を持たなかった。一瞬ではねとばされ、タイルばりの床に投げ出される。よりによって竜王の頚すじに手をかけたのだ。無礼にふさわしい報いだった。  躍りかかってくる第二陣の男たちを、続がスポーツバッグでなぎたおした。ひとりの男は一〇メートルも吹っ飛び、なめらかなタイルの上を、水平に回転しながら遠くへすべって行く。 「ええい、はやくつかまえんか。殺してはならんぞ、生きて無傷でつかまえるんじゃ」  そううめき、ステッキで床をたたいたのは、険悪な目つきの老人であった。田母沢《たもざわ》篤《あつし》というこの老人は、私兵の数人に周囲をかためさせている。先日来、竜堂家の兄弟たちを監視し、手を出す隙をねらっていたのだが、公安警察に先をこされてしまったのだ。むろん彼は、それであきらめたわけではない。途中経過がどうであれ、ゴールに彼自身がいれば、それでよいのである。  この日、この時刻、上野駅は東京で最初に混乱が爆発した場所となった。BGMは「天国と地獄」あたりにするべきかもしれない。駅の構内に乱入してきた警官は、一〇〇人をこえたが、一〇〇人同時に飛びかかれるわけでもないので、底知れぬエネルギーを持つ竜堂兄弟の各個撃破にかかって、上野駅構内のあちこちに、気絶者や負傷者の小山をきずきあげるだけであった。  やがて活劇場画は地下へと移っていった。  上野駅の地上と地下を結ぶエスカレーターは長い。じつに長くて、人によっては、乗っている間に時差ぼけするそうである。トライアスロンの練習に使う人も、そのうち出てくるだろう。竜堂家の年少組は——さしあたり警官相手の鬼ごっこに使うことにした。エスカレーターの中途で、上方を振りかえってみると、新手《あらて》の敵が殺到してくるところであった。 「待たんかあ、このガキども!」  これはあいさつみたいなもので、そういわれたからといって待つ必要はないのである。だが、終はすなおに待った。エスカレーターを踏み鳴らして駆け寄ってきた警官が、つかみかかってきた瞬間、終はひょいと背をかがめて根手に空を切らせ、ついでに、目の前にある相手の足首をつかんで、かるく持ちあげた。警官の身体はバランスをくずし、終の頭上を飛びこして、エスカレーターを転がりおちていく。一番下まで転げおちて、ふらふらと立ちあがりかけたが、ひざがくだけてへたりこんでしまった。 「ほどほどにしろよ、終!」 「わかってらあ。すぐ行くよ!」  エスカレーターのベルトの上から、となりのエスカレーターのベルト上へ。終と余は、跳躍をくりかえして、警官たちを翻弄《ほんろう》した。  公平に見て、警官たちは、給料分以上にがんばったといえるだろう。長い長いエスカレーターを駆けおり、駆けのぼり、汗だくになって少年たちを追いまわしたが、影を踏むことすらできなかった。ことに気の毒だったのは、下りのエスカレーターを駆け上る終の後を追った警官で、へとへとになって最上部にたどりついたと思ったとたん、ちょいと胸を押され、エスカレーターの上にひっくりかえったまま、最下部へと逆もどりしていった。  重傷者はひとりも出なかった。軽傷者が四人、あとの者はかすり傷ひとつ負わなかった。ただ、ゴールインしたマラソン選手のように疲れはて、息をきらし、汗にまみれていた。ようやく呼吸をととのえたひとりが、駅の構内から這《は》いずりでて、パトカーの群に声を投げた。 「……逃げられました」  呆然たる報告であった。そのときすでに、兇悪な五人組は、上野駅の構内を脱出して、暗い無人の線路上を駆けていた。 [#改ページ] 第四章 ウオーターフロント遁走曲《フーガ》       ㈵  合衆国海軍が誇る世界最強の原子力空母「覇王《ダイナスト》」は、排水量九万一九〇〇トンの巨体を、日本領海の一カイリ外にたゆたわせている。  ヨコスカ・ベースから飛びたった軍用へリが、その飛行甲板の端に降り立ったのは、リュードー・ブラザーズが上野駅の包囲網を脱出してから三時間ほど後のことであった。ヘリから降りたのは、女王然とした彫刻的な容姿の若い女性である。彼女は、べーブ・ルースの会心の一打でも半分しかとどきそうにない広大な甲板を、サングラスごしの冷ややかな視線で一瞥した。彼女には兵器フェチの精神的傾向はなかったから、機能美以上のものを、この艦に感じなかった。 「覇王」の艦長オーガスト・サクソンバーグ大佐は、好みの差はあれ、まず醜男と呼ばれる心配はなさそうな、颯爽《さっそう》たる中年の海軍士官であった。頭髪は茶色だが、一割ほど白いものが混じっている。レディLを迎えた笑顔は、形式的なものではあったが、けっして魅力がないわけではなかった。 「お目にかかれてうれしく思いますよ、レディ。そう呼ばせていただきます。よろしいですか」 「ありがとうございます、大佐。でも、どちらかといえば厄病神《やくびょうがみ》の名が高いと、残念な自覚がありますの」 「あなたのように美しい厄病神なら、とりつかれてみたいものですな」 「悪魔についての冗談は悪魔を呼びますわよ、大佐」  レディLが招じいれられた部屋は、二方の壁面に、合計三ダースほどのモニター・スクリーンが配置されていた。アメリ力合衆国が所有する偵察衛星や通信衛星からの画像が、ここに転送されてくるのだ。半ダースほどの画面は、メガロポリス・トーキョーの上空から、艦上のこの部屋に送られてくる。レディLと艦長の姿を見て、モニター要員のひとりが立ちあがり、敬礼とともに報告した。 「ドラゴン・ブラザーズは、隅田川《リバー・スミダ》の下流へ向かっています」 「ほとんど『GOZlRA』の世界だわね」  レディLは苦笑未満の表情で独語した。ときおり視野を広げて、自分の立場を相対化してみると、滑稽《こっけい》さをまったく消してしまうことはできない。国家の権力や威信、あるいは国家をこえた巨大な意思の存在など、質の悪いジョークでしかないような気がする。アドルフ・ヒットラーを見るがよい。一九三〇年代末に、あのチョビひげのいばりくさった伍長は、絶代《ぜつだい》の英雄として、世界の半分に支持されていたのだ。現在でこそ、あのチョビひげ男は廟笑と否定の対象になっているが、その最盛期に彼をおちょくり、批判したチャーリー・チャップリンは、アメリカ国内からさえ、「英雄の悪口をいうひねくれ者」とののしられたのである。  それはともかく、ドラゴン・ブラザーズの現況についてだが。  数からいえば、五人を四万八〇〇〇人が追いかけまわしていることになる。あっというまに決着がついて不思議はない。だが、四万八〇〇〇人がいっせいに竜堂・鳥羽連合軍を包囲したわけではなかった。首都圏各地に散らばっているのだし、移動の手間もかかる。それに、四万八〇〇〇人のなかには、東北地方や近畿地方から動員された者もいる。いきなり、「言問《こととい》橋から明石《あかし》町方画へ新大橋通り経由で急行せよ」などといわれても、とっさにどう行動してよいかわからない。地図をながめ、警視庁からの指示を受けながら、ようやく目的地に到着したときには、ドラゴン・ファミリーは、とうにべつの場所に移動している。 「あいかわらず、あの娘がいっしょなのね」  レディLはつぶやいた。嫉妬《しっと》しているつもりはないが、そういわれてもしかたないのだろうか。竜堂兄弟と同行しているトバ・マツリという娘に、レディLは奇妙ないらだちを感じる。そもそも、あの娘は普通の人間なのだろうか。ドラゴン・ブラザーズと同じ祖父の血を引く者ではないか。  レディLの眼前で、偵察衛星のカメラが映し出す光景は、つぎつぎと変わっていく。中央区の、せまい街路をはさんで林立するビルの上を、若い危険な逃亡者たちは軽々ととびこえ、はるか下の街路を、わめきさわぎながら制服の群が駆けまわっているのだった。茉理は、始に背負ってもらっていた。彼女ひとりを背負ったからといって、始の行動力は、いささかも減殺《げんさい》されないのである。 「ここまで無能とは……」  レディLは失笑を禁じえなかった。彼女自身、ドラゴン・ブラザーズを相手に失敗をくりかえしている身だが、それを充分に自覚しつつ、なお笑えてくる。日本国首相をけしかけたとき、レディLは微妙な意識操作で、ドラゴン・ブラザーズの利用が可能だと首相に思いこませたのであった。そのため、殺すのでなくとらえようとして、あのざまである。  ドラゴン・ブラザーズを、彼らは人間だと思っている。人間である以上、権力と武力によってその心身の自由を奪いとれるものと信じこんでいる。他人ごとではない、レディL自身、当初はその観念に縛られていた。いかに個人的な能力や志《こころざし》の高さにめぐまれていようと、組織や国家の力におよぶまい、と。  だが、これは、「権力に屈しない人間の勁《つよ》さ」などというものと、話のレベルがちがうのだ。四万八〇〇〇人の宮憲と兵士を、たとえ一〇万人に増やしても、効果などありはしないのだ。騒動が大きくなるだけで、警察や自衛隊の予算が、つまり国民の税金が、浪費されるだけである。まあ、ありあまった富の使途《つかいみち》に困っている国だそうだから、それでもかまわないのかもしれないが。 「ひきつづき、リュードー・ブラザーズを監視してください、大佐」 「おことばどおりに。で、ドクター・クランショーにお会いになりますか、レディL」  レディLは、むろんそのつもりだったが、サクソンバーグ大佐の気のきかせかたに、ふとわずらわしさを感じた。横死《おうし》したヨコタ・ベースのマクマホン・ジュニア将軍は、尊大で粗野な男だったが、「覇王《ダイナスト》」の艦長は妙に如才がなさすぎる。だが、とにかく、ドクター・クランショーには会わねばならぬので、レディLはうなずいて案内を請《こ》うた。  ドクター・クランショーは、軍事科学者にしばしば見られるタイプの男だった。「高知能の犬」という類《たぐい》である。知能指数は高く、発明や計算の才はあるが、社会的な問題意識が完全に欠落し、相対的な視点というものを持たず、命令や規則に対して一ミリグラムの疑問も持とうとしない。日本国の文部省などにとっては理想的な人種であろう。レディLを介した四人姉妹《フォー・シスターズ》の依頼を受け、喜々として、ある兵器の製造に従事していた。  レディLを自ら案内しながら、サクソンバーグ大佐は、用心深い視線で彼女の表情をさぐり、さりげなさをよそおって問いかけた。 「もしあれが通用しなかったらどうしますかな、レディ?」  そう問われて、レディLは、声をともなわない笑いを唇の端にひらめかせた。 「そうね。五〇メガトン級の水爆ミサイルでもたたきこんでみるとしましょうか。でも、日本列島が蒸発した後に、ドラゴンたちだけは生き残っている、という結末になりかねないけど」  サクソンバーグ大佐は、咽喉《のど》に啖《たん》がからまったような表情を浮かべた。 「そのような生物がこの世に存在するとは、想像がしにくいことですな」 「軽々しく実験してみるわけにもいかないでしょうね」  サクソンバーグ大佐の如才なさに刃こぼれが生じたことを、レディLは小気味よく思った。彼女はかるく頭を振り、心のなかで独語した。 「隅田川《リバー・ズミダ》の追跡戦も、なかなかおもしろそうだことね。終幕でいいから参加したいものだわ」       ㈼  スイス連邦共和国。  チューリヒの夜は暗く、静寂に満ちている。灯火が輝く街中で浮かれさわぐような人々は、この街には存在しないようだ。厚い扉の奥、会員制のクラブで静かにグラスをかたむけ、芳香のあわいに世界経済の方向を決する。あるいは針葉樹の木立に囲まれた煉瓦《れんが》づくりの館で、蒼然《そうぜん》たる古書の棚にとりかこまれながら、暖炉の炎のゆらめきに自らの野望を映す。そのような人々の街である。  大西洋決済銀行《ASAB》のビルは、巨大でもなければ威圧的でもない。チューリヒ湖の湖畔から二|街区《ブロツク》をへだてた石造の五階建で、とくに建築芸術上の特色も見られぬ。目だつ必要はなく、また目だってはならないのだ。この平凡な建物こそ、四人姉妹《フォー・シスターズ》の座する、資本主義世界の教皇庁であった。この建物の奥でひそやかな会話がかわされ、指示が下されると、企業が買収され、その創業者が奇怪な死をとげ、一国の大統領が権勢の座を追われ、政府がつぶれ、各国の軍備が増強され、あるいはその逆に東西間の平和交渉が進展する。さまざまな世界の動きは、すべて四人姉妹《フォー・シスターズ》の利益に結びつく。  一九二九年、世界を襲った大恐慌のときも、四人姉妹《フォー・シスターズ》の経済支配権は小ゆるぎもしなかった。ゆらぐはずがなかった。多くの、強大化しつつある競争相手をたたきつぶすために、四人姉妹《フォー・シスターズ》がそれをしくんだからである。コントロールされた戦争と革命、そして恐慌。四人姉妹《フォー・シスターズ》の富と権勢をいやますために、世界の平和と個人の幸福は、単なる彼らの道具でしかなかった。  大西洋決済銀行《ASAB》ビルの五階、東翼の部分は、街路から奥に引っこみ、道ゆく人の目から用心ぶかくさえぎられている。スイスには、世界の権力者と富豪からの投資と預金が集中しており、アドルフ・ヒットラーさえ、その利権を犯すことはできなかった。現在、ソ連がかりに西欧諸国への武力侵攻をくわだてているとしても、けっしてスイスに手を触れることはない。この小さな山国には、地上の富と地下の富が集中し、保管されていて、何者の侵犯も許すことはないのである。  東京の午前九時。チューリッヒは同日の午前一時である。いま、四人姉妹《フォー・シスターズ》の大君《タイクーン》たちは、彼らの使用人であるウォルター・S・タウンゼントに、出すぎたまねをせぬよう釘をさしたところだった。 「タウンゼントよ、夜空に星を見るのもよいが、足もとの石に注意を払うことも肝要《かんよう》だぞ。心するがよい」  タウンゼントの肝《きも》を冷やすに、それは充分な一言であった。四人姉妹《フォー・シスターズ》の最高指導者である大君たちは、コーザ・ノストラの下っぱのように、わめいたりののしったりはしない。日本の与党の幹部のように、濁声《だみごえ》で無知なことをがなりたてることもない。その表情も声も静かで、激するということはない。その真の恐ろしさは、一部の人間だけが知っていればよいことで、万人に知られる必要はないのである。喝采《かっさい》と野次《やじ》をあびるのは、たとえばアメリカ大統領の役目であり、大君たちの役目は、大統領を服従させることであった。  タウンゼントが辞去すると、四人の大君は椅子にすわりなおした。腕時計をのぞきこみつつ、ひとりがつぶやいた。 「世界に対するわれわれの支配がいつまでつづくことか。考えてもみるがいい、アメリカ合衆国が誕生するまでは、ロックフォードもマリガンもミューロンもデュパンも、地上に存在しなかったのだ」  大君《タイクーン》たちの誰かが、椅子の肘《ひじ》かけを指先でたたいていた。その音が、ふいにやんだ。音もなく匂いもなく、姿もないものが、やめさせたのだ。冷水をあびたように、大君たちは全身を緊張させた。椅子から立ちあがり、部屋の奥に吊るされた力ーテンの前に横一列に並んだ。資本主義世界の支配者とも思えぬ、弱々しいほどに鞠躬如《さっきゅうじょ》たる姿であった。申しあわせたように、ひざを折り、床に手をついた。畏怖《いふ》が見えない鎖となって、彼らを縛りあげたようであった。それは、ある種の宗教において、教徒が、神かその代理人にぬかずく姿を思わせた。彼らは自ら言ったように、「下僕《しもべ》の頭《かしら》」であるにすぎなかった。その正体を他人に見せる必要はない。だが、真の主人の前ではかぎりなく礼を守らねばならなかった。  厚く重いカーテンのむこうに、何か生物の気配がした。カーテンが隙間風を受けたかのごとく、わずかにゆらめく。カーテンのむこうは壁であり、空気がはいる余地もないはずであった。だが、合理的な説明とはべつに、カーテンの後方には、いまたしかに何かが存在していたのである。大君たちの呼吸と鼓動は早まり、額や頸すじに汗が光った。カーペットの上についた手が小きぎみに慄《ふる》える。カーテンのむこうに存在する何者かは、大君たちを完全に支配していた。彼らはひたすら、ご主人さまのお声がかかるのを待っていた。長い長い数分間の沈黙が、ようやく破れた。 「崑崙《クンロン》が動き出した……」  その声ならぬ声が、大君たちの脳裏に泌《し》みとおった。声ではなく、正確には意識の波動であろう。 「崑崙」という名詞が、大君たちには耳なれぬ。 「それは一大事なのでございますか、われらにとっても」  大君のひとりが、かすれた声を押し出した。だが相手の反応は奇怪だった。放心したような無反応に、やっと言葉がつづく。 「藍采和《らんさいわ》と曹国舅《そうこっきゅう》が日本国に姿をあらわしたという……完全ではないが……もはや時がない……」 「何者」かの言葉は、四人姉妹《フォー・シスターズ》の大君たちにとって、理解しがたいものであった。ただ、その波動に、いらだちと呼べるような波形が存在していた。そのいらだちが、大君たちにとっては恐ろしい。べつのひとりが、慄える声で言上した。 「私どもは何をいたせばよろしゅうございましょうか。ご命令のとおりにいたしますゆえ、どうぞお教え下さい」 「……心せよ……心せよ……」  波動はふいに消えた。  たっぶり三分間、身動きする者はいない。  四人のうちひとりがひざで前に進み、カーテンをそっと押しあける。眼前に壁が立ちはだかり、空気だけが彼の侵入をとがめた。 「お帰りになられた……」  汗にぬれた声で、大君のひとりがつぶやいた。カーペットの上に、何者かの痕跡が残っていた。カーペットの長い毛が、一部、反対方向に寝ており、あたかも、巨大な蛇がその場でのたくったように見えた。  大きな息をついて、大君たちは床から立ちあがった。疲労と消耗が、彼らの顔に、青黒い影を落としていた。人界における権勢とひきかえに、彼らは、絶対的な忠誠と服従、そして多くの人命を彼らの支配者にささげてきたのである。彼らは、体力をふりしぼるように、それぞれの席へもどった。 「ひとつたしかなことがあるようだ」  大君のひとりが、椅子に身を沈めて、低くあえいだ。ブランデーグラスを手にした他の三人が、ややおびえたような視線を仲間に集中させる。 「われわれの世界、つまり人界がけっして統一されていないように、天界も統一されておらぬということだ。あの御方でさえ、御意のままにならぬものがある」 「というと……」 「そうだ。唯一絶対の神などおらぬということだ。人が争うように神々も争う。そうとしか考えられぬではないか」  沈黙がマリンスノーのように大君《タイクーン》たちの肩に降りつもった。ブランデーグラスを手にしたまま、四人姉妹《フォー・シスターズ》の四人の支配者は、重苦しい気分に身をゆだねつづけた。       ㈽  巨大空母「覇王《ダイナスト》」の艦上やスイスの美しい湖畔の都市で何がおころうと、さしあたっては関係ない立場の男たちがいる。メガロポリス・トーキョーの北辺にある小さな衛星都市では、警察と自衛隊とマスコミを代表する(つもりでいる)三人の青年が、芸もなくTV画面に見入っていた。 「いやあ、何とも元気な連中だな」  うれしそうに水池《みずち》が手をたたくと、にがい表情で虹川《にじかわ》が受ける。 「元気ですむか。まったく、ささやかとか地味とかいう言葉を知らん連中だ」 「自然にそうなるんだろうよ」  と、これは蜃海《しんかい》である。TVは、朝の放送開始以来、竜堂兄弟プラスワンの逃亡ぶりを流しっぱなしであった。放送局ごとに内容に混乱があるのは、彼らを追う政府のほうが、報道を管制するか操作するか、かならずしもスタンスが一定していないからであろう。水池が立ちあがり、他のふたりと一匹にむけて提案した。 「こんなアジトにくすぶっているより、出かけていって、あの連中に接触したほうがましだ。おのおのがた、出かけようぜ」 「おれの家が、いつアジトになったんだ!?」 「世界征服計画の最高司令部だったっけ」 「あほう!」  虹川はうめいた。何やらもったいぶって、蜃海がうなずく。 「まあ、世紀末だからな」 「世紀末でかたつく問題じゃないだろう」  いいながら、虹川は、もしかして自分は常識家なのではないだろうか、と思った。いずれにしても、夏の一日、大の男三人でくすぶっていてもしかたないことはたしかだ。水池が玄関へむけて歩きだした。 「いこうか、松永《まつなが》、出動だ」 「わん」と元気よく松永良彦君は答えた。  この日、世界経済の中枢であるトーキョー・シティの交通は、終日、混乱をきわめた。いちじるしい交通規制に加え、制服を着た五万人近くの男どもが自動車と徒歩で走りまわっている。電車や地下鉄のダイヤも乱れっぱなし。道路は渋滞と無人状態がいりみだれ、都民の不満度は不快指数同様、上昇するばかりだった。  日本国の警察は、何ひとつ法的根拠がないのに、 「ビルの屋上に登るな、窓をあけるな、カーテンをしめろ、自家用車に乗るな、トランクをあけて見せろ、自粛して店をあけるな」と脅迫が憲しく市民に命令してまわる、まことに民主的な組織である。その命令にさからっても、射殺されるようなことはなく、せいぜい「非国民」呼ばわりされて、警棒で殴られたり、唐の営業許可を取り償されたり、「あいつは過激派のシンパだ」という根も葉もない噂を流されてアパートを追い出された身、アルバイト先を免職になったりするぐらいですむ。ソ連の国家保安委員会《KGB》などと比べて、何と寛大で穏健な組織であろう。批判したり悪口をいったりしたら、天罰があるにちがいないとは、水池真彦が辛辣《しんらつ》に評するところであった。  むろん日本の警察にも、いくつもの顔があるわけで、一九八八年末に長崎市長が昭和天皇の戦争責任について言及し、悪質な脅追を受けたときに、市長を警護した警官がいった一言、「私たちは市長を守っているのではない、民主主義を守っているのだ」は、まことに賞賛すべき発言であった。要するに、何といっても警察というものは、大きな硬命と権力を持っているもので、近代民主社会のガードマンとして、どのように自覚を持つかがたいせつなのであろう。  さて、この日、警官たちは気が立っていた。彼らにとっても、この夏はろくでもない夏だった。彼らだって、都民の白い眼にかこまれながら、炎天下で立ったり走ったり、好きでやっているわけではなかった。 「やってられへんよ、なあ」  厳戒態勢のため、関西方面から東京へ駆りだされた若い警官たちが、小声でぼやいている。二四時間勤務の上、それが終わって寝る場所は、近くの警察署の柔道場なのだ。冷房も効《き》かぬ場所でごろ寝させられ、プライバシーなどないし、遊び場にくわしいわけでもなく、いつ帰れるかもわからない。すこしでも怪しい奴を見かけたら、一発ぐらいなぐりつけてやりたくなるというものである。 「あーあ、泳ぎに行きてえな」 「お偉方はクーラーの効いた場所で、命令ばかり出してやがるんだぜ、畜生」 「おいっ、その車、ここは封鎖中だといってるだろうが! 日本語が読めんのか。あほづらさげて生意気にポルシェなんか乗りまわしやがって」  というようなわけで、汗まみれの警官たちも、いまや爆発寸前のありさまなのである。  善良な都民と忠実な警宮に多大の迷惑をかけている張本人たちは、隅田川の河口近くにいた。中央区新川である。続が紅竜に変化した夜、飛行船が係留《けいりゅう》されていた広い土地だ。午前九時すぎ。二〇〇〇人以上の機動隊員が、兇悪な五人組を遠巻きにし、突入の機会をうかがっていた。  河岸の売店へ行ってきた終と余が、駆けもどってきた。 「兄さん、弁当買ってきた」 「ちゃんと代金は支払っただろうな」 「もちろん、おつりももらったよ」 「よろしい。では分配してくれ」  食糧もなしに敵と戦えると思っていたのは、第二次世界大戦当時の日本軍の指導者ぐらいのものである。竜堂家の面々は、彼らの一万倍くらい賢かったから、食事の重要さをちゃんとわきまえていた。六時間の追跡劇で、前回の食事のエネルギーを費《つか》い果たしていたから、五人はハイキング気分を復活させて弁当を開いた。 「照焼チキン弁当、おれの!」とか、「コロッケあげるからハンバーグちょうだい」とか、「お茶」とかいう会話が飛びかう。終がお茶と御飯を口のなかでまぜながら問題提起した。 「海岸に出ちまったら、あと、行くところがないなあ。グアムあたりまで泳ぐのかい?」 「どうぞ行ってらっしゃい。日本海溝に永住してもかまいませんよ」 「ふん、そうかよ。ひとりだけじゃもったいないから、そのときは続兄貴を同居させてやるよ」 「つつしんで辞退します。終君とちがって、ぼくは今さら水をしたたらせる必要がありませんからね」  そのありさまを双眼鏡でながめながら、機動隊は、すぐに動き出そうとはしなかった。この六時間に、兇悪な五人組にのばされた同僚は、一〇〇〇人ではきかないのだ。それに加え、上部からの指示も不統一で、いろいろ命令が交錯したあげく、待機をつづけるしかなかった。変化が生じたのは一〇時に近くなってからだ。       ㈿  ワイヤーの網を四機がかりで吊《つ》りさげたヘリが、空の一角から近づいてくる。まがまがしい雷雲が広がってくるような印象であった。  ヘリの接近に勢いづいたのか、遠くから竜堂・鳥羽連合軍をおそるおそる見張っていた機動隊が、ほんのすこし近づいてきた。スピーカーが、風邪《かぜ》をひいた鴉《からす》のようにどなりたてる。 「周囲は完全に包囲されている。抵抗をあきらめ、両手をあげて出てきなさい。まともな人の道に立ち返りなさい。君たちのご両親は、草葉の蔭で泣いているぞー」 「……ほんとにそう思う?」  余がささやくと、終がささやき返した。 「うちの両親が、こんなことで泣いたりするもんか。よくやった、と、手をたたくか、もっとしっかりせい、と、どやしつけるかさ。警察の奴ら、うちの家風を知りもしないで、安っぽいシナリオを読みあげるんだから、いやになるぜ」 「つぎは、うちの父が登場して、泣き落としにかかるかもしれないわね」  冗談のつもりで、茉理は笑ったが、始と続と終の三人は、深夜のTV放送を目撃しただけに、笑うに笑えず、視線を見かわしただけであった。  ヘリの爆音が、さらに近づいてきた。二、三十年昔の怪獣映画を模倣《まね》して、竜堂・鳥羽連合軍の頭上に、網をかぶせるつもりらしい。独創性はないが、アイデアとしては悪くない。相手が象や、あるいは恐竜であれば成功したにちがいなかった。  だが、追手がどのようなアイデアを持ち出してきても、やられてやるような義務は、竜堂兄弟にはない。始が三男坊の頭に、ぽんと掌《てのひら》をのせた。 「おい、エース、いっちょうお前さんの強肩を見せてやれ。しばらく前に湾岸道路で見せたやつだ」 「OK、コーラ瓶《びん》投げ世界一の腕を見せてやらあ」  空《から》のコーラ瓶を片手に、終は立ちあがった。彼は進取の気性に富んでいるから、幾日か前の夜のように、一本の瓶で一機のヘリを撃墜するようなことで満足はしないのだ。投手というより外野手のモーションで、終は鋭く右手首をひらめかせた。  コーラ瓶は夏空を一本の理想的な抛物線《ほうぶつせん》となってつらぬいた。角度も速度も、完襞に計算されていた。コーラ瓶は、四機のへリが張りわたしたワイヤーの網の中心部に、正確に命中し、そのまま信じられない力で上昇をつづけた。  四機のヘリは、その網に引っぱられた。空中でヘリのバランスがくずれる。ひとたびバランスがくずれれば、へリは弱い。四機はそれぞれ空中で体勢をととのえようとして、行動の同一性を失った。失速し、必死に運動性を回復しようとしつつ、隅田川の河面にむかって舞い落ちていく。高く太い水柱が四本あがり、巨大な網は死に瀕《ひん》したプテラノドンのように河面にひろがって泡や波を巻きおこす。乗組員たちは、わめいたりどなったりしながら、ヘリの機体にしがみついたり岸へと泳ぎだしたりしている。  その騒動が終わらないうちに、五機めのへリが姿をあらわした。攻撃の姿勢をしめさず、五人組から二〇歩ほどの距離をおいた地点に、ゆっくりヘリが着陸すると、ひとりの女性が姿をあらわした。背が高く、堂々とした姿は、余以外の全員が記憶にとどめていた。終が、大声で彼女の名を呼んだ。 「あ、Lサイズ!」  叫んでから、すこしまちがったような気がしたが、べつに悪びれる必要もない。レディLの胸が豊かなのは事実である。 「おひさしぶり、ドラゴン・ブラザーズ」  レディLのほうも、ここ数日の深刻な対立関係を、忘れ去ったような表情である。始も続も沈黙しているので、終が柄《がら》になく外交官役を買って出た。 「何の用だよ、呼ばれもしないのに来る客は、手土産《てみやげ》を持ってくるもんだぜ」  これは悪い冗談だった。後になってみれば、であるが。レディLはこれまで、たっぷり時間をかけて弁舌《べんぜつ》を弄《ろう》してから行動するという印象を与えてきた。自分自身の行動バターンを、武器として逆用するほど、レディLはしたたかだった。 「手土産? そうね、これなんかいかが?」  レディLの手がハンドバッグに何気なく動いたとき、白い光芒《こうぼう》が五人の視界をないだ。彼女の乗ってきたヘリが、強力なサーチライトをあびせかけたのだ。さすがの竜堂兄弟が、一瞬、視力を奪われた。レディLはハンドバッグから取りだしたものを、電光の迅速さでうごめかした。かちり、と金属性の音がした。  始の左手首に、白銀色に光る手錠の輪がはまっていた。そして、もう一方の輪があるべき場所には、卵型の、そして卵色の物体がぶらさがっていた。長径一〇センチほどのそれは、金属ではなく、セラミック製の物体のようであった。手錠と卵型物体をつないでいるのは、直径五ミリほどの黒いコードであった。レディLは飛びすさり、ゆっくりと笑顔をつくった。 「たぶん、はじめて見るものでしょうから、その正体を教えてあげましょう。名前だけは知ってるでしようけど、それが中性子《ニュートロン》爆弾よ」  はっと息をのむ気配が埋立地にひろがった。 「兄さん!」と、続が叫び、当の始は、わずかに眉をひそめて、女王のようにすら見える敵を見やった。その指が黒いコードにかかると、レディLの声が彼の意図をはばんだ。 「そのコードは、あなたのパワーでも、たぶん切れないわ。いえ、切れてもかまわない。切れた瞬間に、中性子爆弾は爆発して、半径三〇〇メートル以内の全生物が、致死量以上の中性子にさらされることになるけどね。他人を巻きこんでもかまわないなら、切ってみることだわ」 「卑怯《ひきよう》にもほどがありますね」  続の両眼が、火竜のそれに近づいたように見えた。目顔で弟の激発を制して、始は、口を開いた。 「誰が巻きこまれようと、責任は、ことをたくらんだあんたたちにある。どういう結果になろうと、おれの知ったことじゃない」 「口ではそういうわね。でも実行できるかしら。あなたのすぐ背後には、大きな病院がある。何百人か、あるいはそれ以上の患者が、ベッドの上で悶え苦しんで死ぬことになるわ。それでもいいのかしら、キング・オブ・ドラゴンズ?」  ゆっくりと、レディLは、端整な形の頭を振ってみせた。 「あなたが、強い者にはどこまでも強く、弱い者には弱いということは、横田基地の夜に充分わかってるのよ。無力な入院患者を見殺しにするなんて、あなたにはできやしない。まして、あなたの傍《かたわら》には、不死身の弟たちだけではなくて、従妹《いとこ》もいることだしね」  始に寄りそうようにして、茉理が叫んだ。 「わたしは死ぬのなんか怖《こわ》くないわよ。いやだけど、でも、怖くはないわ」 「おだまり、お嬢さん」  レディLの声は冷たい。 「選択するのは、あなたではなくて、あなたのだいじな従兄《いとこ》よ。死ぬのが怖くないのは、わたしも同じ。これは勇気や恐怖の問題ではないのよ」  始は次男坊に冷静な声をかけた。 「続、終と余、それに茉理ちゃんを頼む」 「兄さん!」 「兄貴!」 「始兄さん!」 「始さん!」  弟たちの四重唱を、長兄は無視した。まっすぐレディLを見やる。 「起爆スイッチはどこかべつのところにあるんだろうな、あんたの落ち着きぶりを見ると」 「そのとおりよ」  始は、かるく肩をすくめた。 「じゃ、ちょっと行ってくるぞ、続」 「いやです、兄さん、ぼくもいっしょに」 「続、何年おれとつきあってきた? 家長の命令は絶対だといったろう。おれの命令をきかない奴は、おれの弟じゃない」 「兄さん……」  続は絶句した。兄の心情がわかるだけに、それ以上、何もいえない。始はそっと茉理の身体を離した。終の頭をぽんとたたき、余の頭をなでる。悪童たちも、妙におとなしくなって、声を出せずにいた。 「おれだけで、がまんしろ。弟たちに手を出すな」  始は声を高めも強めもしなかったが、レディLは充分な迫力と威厳を感じとった。 「弟たちに手を出したら、地球そのものを破滅させてやる。人類がどうなろうとかまやしない。そのことだけは憶《おぼ》えておいてもらうぞ」 「……けっこうよ」  外交的な妥協の途《みち》を、レディLは選んだ。多くを望みすぎれば、結果を両手でかかえきれなくなる。竜堂兄弟の要《かなめ》であり柱である始を、弟たちと引き離しただけで、まず満足すべきであった。 「では、ブルー・ドラゴン、わたしといっしょに来てもらいましよう」 「じゃ、ちょっと行ってくる。留守をよろしくな」  かるく長兄は次男坊に片手をあげた。  レディLのいうとおり、茉理を中性子爆弾の効力の範囲内にとどめておくことはできない。それに、自分たちが自由であれば、長兄を救う機会もあるはずだ。なければつくる。そう続は決心している。始は竜堂家の家長であり、そして竜種の長、竜王のなかの王であった。彼が無事でなければ、竜種そのものに明日はなかった。  続が弟たちと従妹をつれて遠ざかっていくのを、始は見送った。三〇〇メートル以上の距離が生じるまで、何ごとをおこすつもりもなかった。だが、その目がすっと細まって、レディLをにらみすえた。 「だましたな! 機動隊が弟たちを攻撃してるじゃないか」 「アメリカ軍は手を出さない。そういう約束はしたわ。だけどあれは日本の機動隊よ」 「関係ないとでもいうつもりか」  レディL自身でさえ、詭弁《きべん》だと思ったのだから、始が納得するわけはなかった。首相官邸や警視庁との間に、連絡の行きちがいがあったのか。それとも故意か。機動隊は、竜堂兄弟と大乱闘をはじめたのだ。戦いつつ、その乱闘シーンが土煙とともに遠ざかっていくのは、竜堂兄弟がつかまっていない証拠であろう。  始の手が中性子爆弾にかかったのを見て、レディLは叫んだ。 「それは本物よ、脅《おど》しじゃないわ」 「じゃあスイッチを入れてみるんだな。本物かもしれないが、ちゃんと爆発するかどうかあやしいものさ」  言いすてて、始は長身をひるがえした。機動隊の方角へ駆け出そうとしたとき、ヘリのパイロットが悲鳴をもらした。レディLにむかってわめく顔が恐怖にひきつる。 「『覇王《ダイナスト》』からの緊急連絡です。ドクター・クランショーがミスをして……その中性子爆弾は、とっくに時限スイッチがはいっているそうです。あと三〇秒で爆発します!」 「何ですって!?」  個性を欠く反応が、レディLの驚愕を雄弁に物語った。始の足がとまり、視線が自分の左手首に向けられる。 「レディL! ヘリに乗って下さい。三〇秒、いや、二五秒で三〇〇メートル離れないと、中性子をあびて全員即死です」 「ま、待って」  レディLが決断に窮《きゅう》するとすれば、このときがまさにそうであった。ヘリに飛び乗っても、竜堂始の追撃から逃がれられるだろうか。それに半径三〇〇メートル以内には、竜堂始の弟たちや従妹《いとこ》がいる。機動隊員もいる。病院の患者や看護婦や医師たち。一〇〇〇人単位で死者がでる。いかに日本政府がアメリカのいいなりになるといっても、限界があろう。レディLは、ドクター・クランショーのまぬけぶりを呪《のろ》った。爆弾が本物であるにせよ、今回、脅迫の道具としてしか使うつもりはなかったのに。 「あと二〇秒!」  パイロットが逆上寸前でわめいたとき、レディLのすぐ傍《かたわら》を、風のかたまりが走りぬけた。レディLは息をのんだ。中性子爆弾を左手首にぶらさげたまま、始が、駆け去っていく。全力疾走であった。計測すれば、一〇〇メートル五秒を割っていたにちがいない。あっというまに隅田川の護岸堤防に達すると、身を躍らせた。わずかに水があがっただけの、きれいな飛びこみだった。そのまま沖へ、無人の埋立地の方角へ泳いでいく。 「何……わたしたちを巻きぞえにしないようにしているの?」  レディLはつぶやいた。その手をパイロットがひっつかみ、ヘリの座席に押しこめた。たちまちヘリは上昇し、生きた中性子爆弾からさらに遼ざかる。  それがおこったのは、相対距離六五〇メートルというところだった。  青白い閃光《せんこう》が隅田川の河面に噴きあがった。それは大きくもなく、鋭くもなかったが、核分裂の光であり、この瞬間、半径三〇〇メートルの範囲に、致死量の中性子が放射されたのである。 [#天野版挿絵 ]  死の半球からのがれ出たヘリの座席で、レディLは戦慄した。中性子爆弾が爆発したからではない。そのていどのことは予測していたし、魔都トーキョーの小さな一画が中性子によって汚染されたところで、べつに彼女の胸は痛みもしなかった。だが、その爆発が巨大な結果を生むかもしれなかった。つまり、レディLは、隅田川の河面を突き破って巨大な竜が姿をあらわすのではないか、と思ったのだ。だが、青白い閃光が消えた後の河面は、死の沈黙におおわれていた。  中性子が消え去った時刻を見はからって、アメリカ軍が動きだした。二機の大型ヘリが、「覇王《ダイナスト》」の甲板から飛来した。|対原子・生物・化学兵器部隊《AABCF》の要員が、河中に沈んだ竜堂始の死体を引きあげにかかったのだ。自らもヘリをおりて、レディLは作業を見守った。 「ブルー・ドラゴン、あなたはばかよ」  レディLの両眼には、嘲笑はなかった。むしろ沈痛なほどの表情があり、喪失感におおわれていた。部隊の責任者、ピカルド大尉か巨体をゆすりつつ説明した。 「川の流れがありますし、核分裂による放射能はかなりの速さで洗い流されたと見るべきでしょう。ほどなく捜索が開始できるはずです。しかし、死体はひどい状態でしょうな」  生前はハンサム・ガイだったらしいが、と、大尉は笑い、その鈍感さがレディLに嫌悪感をもよおさせた。全身が紫色の斑点におおわれ、皮膚細胞は半ば溶けくずれて骨格や内臓が露出しているはずだ、と、さらに大尉は説明した。  大尉の予想がくつがえされたのは、九〇分を経過してからである。中性子・放射能防護服を着用した一〇人の兵士に引きあげられたとき、始は、着衣はずたずたに裂け、意識を失ってはいたが、生きていた。信じられないことだが、心臓は弱々しく動いていた。そしてその身体は……。  ひと目見て、うっ、と、レディLは呼吸をのみこんだ。  引きあげられた竜堂始は、人間の姿のままであった。だが、その皮膚は、あわい青さできらめくものにおおわれていたのである。それは明らかに鱗《うろこ》と呼ぶべきものであった。アメリ力兵たちが低くざわめいた。レディLは深く呼吸した。 「『覇王《ダイナスト》』に運びこむのよ」  命じるレディLの声は、抑制の意思をこえて、わずかに上ずった。 「『覇王《ダイナスト》』の艦内なら安全だわ、たぶんね。必要ならその後、原子力潜水艦に移してもよいし、最終的には合衆国本土《ステーツ》に……」  レディLは言葉を切った。彼女はさとっていた。青竜王は、おそらく自らの意思の力によって、竜体への変身を阻止したのであろう。変身を制御する精神的なエネルギーの使いかたを、青竜王は知っていた。そして、知っている以上に、それをきちんと実際に使うことができたし、使おうという意思をしめしたのだ。さすがにキング・オブ・ドラゴンズだ、と、レディLはその器量を認めずにいられなかった。  そしてまだ三人、竜王は残っているのである。長兄を救うために、彼らはどう動くか。まだ何ひとつ終わってはいなかった。 [#改ページ] 第五章 竜王on覇王       ㈵  ……東海《とうかい》青竜王《せいりゅうおう》敖広《ごうこう》は、天宮の広く長い回廊を歩いていた。見る者がいれば、彼がまとっているのは、伝統的な中国の皇族の衣裳だとわかるであろう。服の基調色は青で、濃藍から淡い水色に至る、いくつかの明度と色調が使われ、さらに黄金色と白銀色が要所に配されている。堂々たる長身、若々しさと同じほどに重厚な風格、どこか超然とした表情など、いずれも天界の重鎮たるにふさわしかった。  すでに夜であり、空には人界が浮かんでいる。青緑色の宝玉を思わせる惑星だ。数万の雲が、白く線を描いて、その宝玉を飾っている。宇宙でもっとも麗《うるわ》しい惑星のひとつであるという。背後に数億の星々がつらなり、これは黒びろうどの上にばらまかれた銀砂のようにも見える。  それらの光景をさえぎるように、巨大な竜船が音もなく飛翔していく。北落師門《フォーマルハウト》方面へでも行くのであろうか。  廊下をあゆみつつ、ちらと左側の広間に視線を送る。そこは茶話室のような区域で、赤松子《せきしょうし》、寧封子《ねいほうし》、馬師皇《ばしこう》、赤将子輿《せきしょうしよ》、握[#原本では人偏]栓[#原本では人偏]《あくせん》、容成公《ようせいこう》、方回《ほうかい》、務光《むこう》、その他、天界の重鎮たちが、茶を飲み、花びらや木の実をつまんでたむろしている。声をかけられると長くなるし、この長老たちはすぐ若者をからかうので、やや歩調をはやめて青竜王は通りすぎた。 「伯卿《はくけい》!」  字《あざな》を呼ばれて、しかたなく振りかえると、知人が歩みよってくるところだった。儀狄《ぎてき》という。地上の神話によれば、聖王|禹《う》の世に、はじめて酒を発明したといわれる男である。伝統的な文官の服装だが、隙なく着こなしているとはいえない。瓢々《ひょうひょう》として、知性をむき出しにしない男で、年齢は三〇歳ほどに見える。 「これは儀狄どの。めずらしく天宮におつとめか」 「めずらしいのは、おたがいさまだ」  青竜王も儀狄も、あまり天宮に足を運ばぬ。宮づかえにむかぬことを自覚しているのだ。それぞれ性格はちがえ、その一点が共通している 「ところで、どうだ、太真王夫人《たいしんおうふじん》との仲は、すこしはすすんだか? 青竜王」 「よけいなことだ。そもそも仲というほどのものはない。単なる知己《ちき》にすぎぬ」  そっけなく答えつつ、青竜王の頬《ほほ》に赤みがさした。太真王夫人とは西王母の末娘で、地上の泰山《たいざん》を守護する女神である。この場合、夫人とは女神の称号のことで、誰かの妻という意味ではない。天界と泰山とを往来して生活し、泰山にあっては、人間が訪ねることが不可能な断崖中の石窟《せっくつ》宮殿に住み、彼女が大理石の椅子に座して一弦琴《いちげんきん》をかなでると、地上のあらゆる種類の鳥が飛来して、うっとりと聴きほれるという。この美しい少女が、青竜王敖広と恋仲だとは、天界の住人たちにとっては、好意的な噂の種なのであった。 「ほう、仲というほどのものはないか。だが、太真王夫人が天界と泰山を往来するために、三本|爪《づめ》の竜を貸してやっているそうではないか」  三本爪の竜は、竜族のなかでは地位が低いほうである。ちなみに、五本爪の竜とは竜王のことで、五本爪の竜を描いた服は、地上で中国の皇帝だけが着用できるのである。 「頼まれれば貸してやるのがあたりまえだ。でないと天人としてのつとめが果たせぬではないか。太真王夫人以外の者にも、おれは一族の者を貸してやっている。一例だけをとりあげて、とやかくいわれるのは、きわめて不本意だ」 「わかった、わかった」  笑って、儀狄《ぎてき》はかるく手を振った。青竜王はその気になればいくらでも天宮の美女佳人を寵愛することができるのに、何ともものがたい男だ。おまけに、太真王夫人の名を出すと、口で何といおうとつい赤面してしまうあたりが、可愛げがあるではないか。 「それで、今日は主上《しゅじょう》のお呼びで、めずらしく天宮へ足を運ばれたわけか」 「うむ、牛種のことでな」  青竜王の声は、ややにがい。 「なるほど。牛種は人界すべての支配権を欲している。彼らの貪欲さと独善にはうんざりするが、正画きって争えば天界が両分されて大乱となろう。まずいな、青竜王」  儀狄の言葉に、青竜王はうなずいた。 「牛種が人界を支配してこそ、人間は幸福になれるし、精神的な価値観を統一することで争乱も解消されると、牛種どもはいうのだが」 「やれやれ、思いこむのは彼らの勝手だが、それを力ずくで主張しようというあたりが、迷惑きわまるというもの」  闊達《かったつ》な儀狄らしくもなく、深刻な表情で両手を広げてみせた。  それを機に、青竜王は知人と別れた。廊下を曲がること三度、扉のない半円《アーチ》状の戸口をくぐること三度、鄭重《ていちょう》に身分を確認されること四度、ついに「太極殿《たいきょくでん》」と記された巨大な扉の前に至った。黄金と珠玉の豪著な扉が開くと、「東海青竜王敖広さま、ご入来!」と、持従の朗々たる声がひびく。戦車が三|乗《じょう》並走できるほど広い大理石の床を、正確に一〇八歩あゆんで、青竜王は階《きざはし》の下にひざまずいた。三六段の階は、そのちょうど中央に、一二段分の幅を持つ踊り場をそなえている。階の上に玉座があり、天界の至高者が座しているのだが、青竜王の位置からその姿は見えぬ。 「主上、水晶宮《すいしょうきゅう》の住人敖広、御前に参上いたしました」  うやうやしく一礼すると、頭上に、玉帝《ぎょくてい》の声がゆったりと降ってきた。 「なぜ東海青竜王と名乗らぬ? 公人として訪れたに非《あら》ず、ということか」 「べつに理由とてございませぬ。ただ、弱冠《じゃっかん》非才《ひさい》の身をもって竜王を称するは、自らに対してはばかりありまして」 「まあよい。とがめているわけではないのだ。そなたに足労《そくろう》ねがったは、人界のことよ。殷《いん》に統治をゆだねること六〇〇年におよんだが、そろそろ限界のようじゃ」 「革命をなさいますか」 「周《しゅう》をもって殷に代えようと思う」  青竜王は無言をもって反応した。 「どうした、何か言うべきことはないか」 「主上がお決めになったことであれば、広《こう》ごときが口をはさむことではございませぬ」 「誰もがそなたのようであれば、予の悩みもすくないがの、例の牛種がしゃしゃり出てきおって、こたびの革命、あまた血が流れそうじゃ。牛種が申すには、殷と周とを争わせ、殷が勝ちしときには人界ことごとくを牛種にゆだねよ、自分たちはむろん殷をたすけると」 「…………」 「拒《こば》めぬ。そこで均衡をとるため、青竜王よ、そなたら一族は周に加担せよ」 「主上、申しあげにくきことながら、結局それは人界をもてあそぶだけのことではございませんか。殷王の紂《ちゅう》、いささか好色にして倨傲《きょごう》ではございますが、本来さほど暴虐の質《たち》でもございませぬ。あえて革命せずとも、紂王の君主としての自覚をうながせば……」 「では人界をすべて牛種にゆだね、もってよしとするか」  青竜王は返答に窮《きゅう》した。階の上、青竜王が顔をあげても見えぬ位置から、玉帝の声は淡々と降りそそぎつづける。 「牛種はすでに紂王の身辺に魔性を放った。一日ごとに紂王の残虐はつのり、罪なき民、諫言《かんげん》する忠臣が殺されておる。そのやりようを是《ぜ》とせざれば、青竜王よ、一族をもって戦うべきではないか」  青竜王は即答を避けた。だが、主命が抗しがたいものであることを、さとらざるをえなかったのである……。       ㈼  混濁していた意識が回復した。夜明け前の闇を陽光が切り裂くように、五感[#原本は「官」になっているが、いかにも異様であり、間違いだと判断し、訂正する]がめざめる。白い天井が視界に拡がった。両手を動かそうとして、手首と足首が厳重に固定されていることに気づく。実験台とも治療台ともつかぬベッドに、竜堂始は寝かされていた。 「気がついたわね」  型どおりの第一声が降りそそいできた。下着一枚だけの、青い鱗《うろこ》におおわれた始を、レディLが見おろしていた。  開いた目をいったん閉じて、始は、自分の境遇について考えた。あのとき、自然の勢いにまかせて、竜身に変化してしまったほうが、いっそよかったのだろうか。左手首に中性子爆弾をぶらさげて、走るときも泳ぐときも、自分に言い聞かせた始だった。 「竜になるな! 人間でいるんだ!」と。  始は竜に変化するのを忌避《きひ》したわけではない。竜に変化することにともなって、人間としての意識と理性を失うことを恐れたのだ。これまで竜と化した三人の弟は、竜身である間、明らかに人間としての意識を失っていた。それは生命の危険にさらされ、彼らにその危険をもたらした悪虐な人聞どもに反撃した結果であったのだが、その結果、生じた災厄を思うと、始としてはたじろがずにいられなかったのだ。彼が竜と化したときの超常的な力を、彼自身も把握《はあく》していなかったがゆえに。そしてどうやら、そのために敵中に落ちてしまったようであった。レディLは嘲笑するだろうと思った。だが始の予想ははずれた。 「再会できてうれしいわ、ブルー・ドラゴン。あなたのほうはそうでもないと思うけど……」  レディLの声には、物憂《ものう》げな波長がひそんでいた。女王めいた端整な顔が、始を見おろしている。つくりものの顔であることを、始は知っているが、だからといって軽蔑する気はない。ただ、四人姉妹《フォー・シスターズ》の有力な部下である彼女と、舌戦を展開するほど気力が回復してもいなかった。中性子の影響か、胸がむかつくような感触がある。 「キング・オブ・ドラゴンズ、あなたの弟が私にいったわ。王たる者は他者にひざを屈し、飼われることを、いさぎよしとしない、とね」  レディLが回想した。続のことだろう、いかにも続らしい、と、始は思う。だが、この女性は、なぜいまそのようなことを口にするのか。頭のなかに靄《もや》がかかったようで、思考の集中力が欠けていた。精神も肉体も失調状態にあり、いつもの明哲さが始に味方する態勢をととのえていなかった。 「逃げてみなさい、ブルー・ドラゴン。いえ、逃げるのは竜王に似あわない。まして、竜王のなかの王たるあなたにはね」  レディLの両眼にたたえられた光が、妖気めいた彩《いろど》りを深めた。 「あなたがいるのは原子力空母『覇王《ダイナスト》』の艦内よ。排水量九万一九〇〇トン。世界最強の空母といわれているけど、しょせん人間がつくったもの。このていどの船から自らの身を解放できないとしたら、わたしはあなたを竜王だなどとは認めない」  レディLの語調が、しだいに熱をおびていくようであった。 「戦いなさい。そして破壊なさい。それはあなたの権利ではなく、義務なのだから。不当に、非道に、あなたを遇する者たちに、思い知らせてやるべきなのよ。いえ、すべての人類に思い知らせてやるといい。竜王をないがしろにする者は、どう報われるかということを……!」  息を切らせて、レディLは沈黙した。始は、まじまじと彼女を見あげずにいられなかった。この女性は、始を煽動しているのか。激励しているのか。いずれにしてもレディLにお説教される筋合《すじあい》は、始にはないはずだった。  始は目を閉じた。彼はまだ本来の自分をとりもどしておらず、休息が必要であった。  実験病棟を出て、レディLは廊下を歩いた。 「覇王《ダイナスト》」の艦長が、にがい声を押し出した。 「レディL、私はあなたの考えていらっしゃることが理解できませんな」  サクソンバーグ大佐は、皮膚の表面に不快感をにじませていた。そのことを承知の上で、レディLは艦長を無視した。彼女のほうは、たいそう不快であったからだ。サクソンバーグ大佐の部下であるドクター・クランショーのミスで、あやうく中性子爆弾の爆発に巻きこまれるところだったのである。  ドクター・クランショーは、レディLの前に呼び出されて詰問されたが、ミスを指摘されたことが、はなはだ心外だったようで、それはちがいます、といって眼鏡を白く光らせた。 「ミスではないというの?」 「これまで実地でためしたことがありませんでしたので……」  ドクター・クランショーののっぺりした顔に、罪悪感の雲はかかっていなかった。兵器の機能自体を目的化し、それを追求することが、彼の生存意義になってしまったようだ。 「私の計算は完璧でしたよ。中性子のシャワーは半径三〇〇メートルの球状空間を、一センチもはみ出なかった。これでますます、中性子爆弾の実用性は高まった。つぎの目際は一〇〇メートルです」  クランショーは真剣で誠実だった。真剣で誠実であればすべてが赦《ゆる》されると思っている、というより、そんなことを考えたこともないようだった。 「最終的には五〇センチをめざします。そうすれば、目標の人物ひとりを殺し、周囲にいる人間は巻きぞえにせずにすむ。うふふふ、人道的な兵器をつくるのがぼくの子供のころからの夢でしてね。中性子爆弾は血も出ないし、ほんとに、理想的です。ぼくは中性子爆弾を愛してる。中性子爆弾の悪口をいうやつは許さない……」  しだいに眼光と口調が常軌をはずれはじめたので、サクソンバーグ大佐は、まずいと思ったらしい。「もうこのへんで」と、レディLをうながした。中性子爆弾を愛する技術者の、うっとりした顔をもう一度見てから、レディLは大佐の声に応じてドクター・クランショーを研究室に帰した。 「才能のある男です。それに使命感も持っておりまして……」 「使命感のために、わたしを含めたスタッフの生命を危険にさらしたわけ?」 「ですが、そこはそれ、スイッチは爆発二秒前に解除が可能だったと申しますし、現実に被害者は出ず、あの捕虜をえることができたのではありませんか」  紳士が牙をむいた。レディLは皮肉にそう考えた。部下思いの艦長というべきだろうか。あの異常な爆弾フェチの青年をかばうつもりらしい。 「さいわいに死者は出なかった。ハジメ・リュードーの果敢な行動によってね。わたしたちは彼に救われたのよ、おわかりかしら」 「イスラム教徒のように、拝跪《はいき》して礼をいいますかな、あの怪物《モンスター》に」  大佐の声にも表情にも、スズメバチのような毒針がひそんでいた。ことさらに、レディLは問い返した。 「怪物とは、ハジメ・リュードーのこと?」 「中性子爆弾が至近距離で爆発したのに生きているような者には、怪物の名がふさわしい。そう思いませんか、レディL」 「癌《がん》で助かる者もいれば、風邪をこじらせて死ぬ人もいるでしょう」 「そういうレベルの話ではありません。おわかりのはずです、レディL」  大佐はまだどうにか礼儀を守っていた。 「鱗《うろこ》のはえた人間は人間の範囲にふくまれない、私はそう思っておりますよ」  怪奇小説の泰斗《たいと》H・P・ラヴクラフトの作品を読むと、白人の感性に、鱗というものに対する恐怖と嫌悪の念がひそんでいることがうかがえる。爬虫類《はちゅうるい》や魚類への嫌悪。アメリ力製のSFアクション映画で、地球を侵略する宇宙人は、爬虫類タイプが多いようだ。そのようなことはともかく、サクソンバーグ大佐は、鱗が嫌いな人種に属するようであった。  レディLは、わざとらしく笑った。 「人間について、あたらしい定義をつくる必要がありそうですわね。このさい申しあげておけば、さきほど艦長に呼んでいただいたタモザワという日本人は、ほんものの怪物ですの。なにしろ良心に鱗《うろこ》がはえているのだから」 「いずれにせよ、日本という国は怪物の巣だということですな」  強引に、サクソンバーグ大佐は、アメリカの最有力の属国について結論づけた。  甲板から艦内につれてこられた田母沢《たもざわ》篤《あつし》は、あいさつもそこそこにレディLに尋ねた。 「ほんとうに、あの竜堂家の孺子《こぞう》どもを解剖させてくれるのじゃろうな」  田母沢の両眼に、疑惑と歓喜が燃えあがっている。後者が前者を圧倒している証拠は、そもそも彼がここまでやってきたという、その事実にあった。田母沢は、さまざまに策動して、一時は自分の研究所に竜堂終をつれこんだのだが、指一本触れないうちに、まんまと逃げ出されてしまったのである。竜堂兄弟の身柄をめぐって、レディLと田母沢は、「同床《どうしょう》異夢《いむ》」と「呉越《ごえつ》同舟《どうしゅう》」をたしたような関係であった。おたがいに、相手の執念を利用しようと思っていたのである。  そしていま、レディLは、生体解剖狂田母沢の助力をいっさい受けることなく、竜堂始の身柄を手に入れている。田母沢など無視してよいはずなのだが、なぜかレディLは、ヘリまで派遣して、田母沢を、「覇王《ダイナスト》」の艦上に呼びよせたのであった。そして、竜堂始の身体を「研究」するのに、彼の協力がほしいと申し出たのである。 「始というと、たしか長男だったな」 「次男や三男にハジメという名をつける例は、日本にはすくないようですね。で、協力していただけますの、ドクター・タモザワ?」  レディLに問われた田母沢は、考えるそぶりをした。 「こやつはもう完全に、おとなの身体じゃからな。いまひとつ食指《しょくし》が動かん。わしはもっと幼い、子供の身体が好きなんじゃ」 「ノーということですね。それならけっこうですわ、お引きとり下さい。すぐにヘリを発進させますから」  かるくあしらわれて、田母沢はあわてた。彼が口にした台詞《せりふ》は本心ではあったが、だからといって生体解剖の好機を逸《いっ》するつもりは、まったくなかった。 「ノーとはいっとらんじゃないか。わしもプロじゃ、好ききらいでものごとは決めんよ。よろしい、協力させてもらおう」  生体解剖のプロを自認するあたりがすさまじい。サクソンバーグ大佐が、鱗のある人間などいないと言ったことを聞くと、この怪異な老人は鼻先で笑った。 「ふん、亭主が浮気すれば角《つの》を出す女房もおるんじゃ。鱗がはえた人間がおってもかまうまい」 「あなたは彼を人間として認めるというわけね」 「人間以外のものを解剖して、何がおもしろいんじゃ」  心から不思議そうに田母沢は反問し、年齢に似合わぬ若々しい動作で、椅子にすわりなおした。隠しようもなく、上機嫌になっていた。醜悪なサディズムと、ゆがんだ探究心とを満足させる機会が目前にあるのだ。ドクター・クランショーと同類で、数段不気味な、知能だけの怪物だった。竜堂始がとらわれた経緯《けいい》を聞いて、田母沢は大いに興味をいだいた。  田母沢は奇怪な笑声を発して、ひざをたたいた。 「ふひゃふひゃふひゃ……その生命力の秘密を、さぞ誰もがほしがるじゃろうて。独占した者は、地上で最大の権力と富をほしいままにできるじゃろう」  世界じゅうで一万人の富豪だけに、一〇億円ずつでその秘密を売れば、それだけで一〇兆円になる。そう口にした田母沢の計算のいやしさに、レディLはうんざりした。彼女の内心を知ってか知らずか、田母沢は、独語めいた声を発しつづけた。 「乞食《こじき》でも国王でも、人間である以上、生・病・老・死の四つは平等に訪れる。どれほど権勢と富を誇る者でも、老残の身になれば、単なる高校生の若さをうらやんでやまぬのさ。だが、ひとたび人知が不死性を解明すれば……ふひゃふひゃふひゃ、それが全人類に平等に分かち与えられることなど、絶対にありえぬ。のう、そう思わんかな、あんたは」  全面的にレディLは賛成だった。  ただ、田母沢の、人類社会に対する認識が正しいからといって、彼自身の生きざまが正しいとはいえない。彼はつねに特権階級のがわに身を置いて、権力に抵抗できない弱者を、文字どおりメスで斬りきざんできたのである。そして、日本の敗北寸前に、旧満州《マンチュリア》から日本へ逃げ帰った。同胞を見すて、自分の犯した悪業に何ひとつ責任をとることもなく、戦後長く権勢をほしいままにしてきたのだ。 「細胞のメカニズムを解明せねばならんじゃろうて。ふつうの人間の皮膚が、このような鱗に変化するというのは、つまりそういった生物的情報が細胞レベルで組みこまれておるからだろう。まだ決めつけるのは危険じゃがな」  このあたり、医学者ないし生物学者として、いうことはそう異常でもない。異常なのはこの男の精神のありようと、現在までの人生のありかたであって、知能ではなかった。 「いずれにしても、こんなぼろ船のなかでは、完全な研究も実験もできん。まあ基本的な方向をさだめる、というていどだな」  田母沢は、ぬめぬめとした色あいの舌で、唇をなめまわした。この男と、この男の権勢を受けいれてきた日本の社会とに、レディLは、あらためて深刻な嫌悪を感じた。日本人は加害者でありながら被害者にむかって「すんだことをいつまでもガタガタいうな」と言ってのけることができる民族なのだ。 「ところで、わしはな、第二次大戦後、アメリカ軍が関東軍の細菌部隊とつるんだという証拠書類を持っておるんじゃ。戦争犯罪人として告発されて裁判にかけられるのを防いでやるかわり、細菌兵器や人体実験のデータを提供し、今後も協力するという契約の証拠をな。わしを一方的におとしいれようとしてもそうはいかんから、心しておくことじゃな」  真偽のほどのわからぬことをいって、田母沢はレディLを脅迫した。心ゆくまで自分に生体実験をさせろ、というのである。レディLは黙然とうなずいた。田母沢の毒気に圧倒されているように見えたかもしれない。  やがて田母沢は、ベッドに拘束されたままの竜堂始と対面した。  田母沢篤の醜悪な表情は、竜堂始の記憶になかった。ただ一度、夜の国道上で出会っただけであるから、むりもない。だが、親しみをおぼえる相手でないことは、最初からわかった。人間性のもっとも醜悪な部分を露出して平然として生きてきた男だった。 「じつはお前より、下の弟どものほうが好みなのじゃが、ま、オードブルにはよかろう」  この男としては上品なユーモアのつもりなのだ。 「お前の弟どもも、わしが斬りきざんでやる。自分がいなくなった後どうなるか、よけいな心配をせんでもいいぞ。仲よく、いずれホルマリン漬《づ》けになるんじゃ。いや、皮膚だけはいで剥製《はくせい》にしてやろうか。これはたいへんな名誉なんじゃぞ」  ぺちゃべちゃ舌を鳴らして笑ったが、急に目を細めた。 「反抗したそうな目をしとるな。どうも気にくわん。気にくわん……老人に対する敬意を持たんのは、戦後教育が悪いのだ」  老人の手に、愛用のメスが光った。 「関東軍におったころ、わしは自分自身の手で八○人ばかり生きたまま解剖した。そのうちのひとりが、お前と同じような目をして、わしを極悪人だの悪魔だのとののしりおった。むろん罰をくれてやったさ。そやつの目の前で、そやつの三歳の子供を麻酔なしで解剖してやったのじゃ」  うれしそうに老人はメスを振ってみせた。 「わしは医学と大日本帝国のために、非国民や劣等民族の肉体を斬りきぎんだのだ。日本は世界一優秀な民族がつくった神の国だ。日本は世界と人類を支配する使命と資格があるんじゃ!」  老人は始の左腕めがけてメスの刃をすべらせた。  かちん、と、澄んだ音がひびいて、メスははね返った。田母沢は、べつに失望したようすもなく、メスを目に近づけて刃の状態を調べた。 「はて、キチン質、といえばよいのかな。何か体内から分泌された物質が、瞬間的に皮膚を角質化させるのじゃろうか。ふむふむ、調べるほどに興味が湧いてくるわい……」  田母沢は、慌惚の証であるよだれ[#「よだれ」に傍点]の糸を口の端から引いていた。「覇王《ダイナスト》」に乗艦しているアメリカがわの医学スタッフを閉めだし、自分ひとりで広大な実験病室の空間と設備を独占している。いずれ本格的な実験がはじまれば、彼らの手を借りざるをえないが、まだいまはオードブルの段階だった。始に対していったように。 「ふひぇふひぇ、関東軍のころがなつかしいわい。あのころは捕虜や政治犯どもを日本刀で試《ため》し斬りしても、解剖しても、麻薬を横流ししても、誰ひとり文句をいう奴はいなかった。日本にいる奴らが餓死寸前のときも、わしらは米、肉、酒、甘いもの、食いたい放題じゃった。まさに王道楽土《おうどうらくど》じゃったわい」  頭を振って、エゴイスティックな回想を振りおとし、田母沢は現実とむかいあった。 「ものには順序があるでな、まず左の足首からということにしておこう。ふひぇふひぇ、心配は無用ぞ。全部斬り落とすことはせん。半分だけじゃ。半分、そう、骨の芯まで切断して、治癒《ちゆ》のスピードを確認してからじゃ。痛かったら泣きわめいてもかまわんぞ」  田母沢はチェーンソーをとりあげ、スイッチを入れた。神経網を引き裂くような音がして、刃が高速回転をはじめる。 「これでは出力がたりんかな」  つぶやいて、回転する刃を始の左足首にあてた。強化スチールでつくられた拘束具の、すぐ上である。刃は青い鱗《うろこ》の上をすべった。いやな音がして火花がはねた。刃を引いて、田母沢はその場所を確認した。鱗の上に、白い線が浮き出ている。まったく無傷というわけには、さすがにいかなかったようだ。 「いいかげんにしてほしいな」  はじめて始が口を開いた。不愉快な光景は、目をとじて遮断《しゃだん》することができるが、不愉快な声に対して耳をふさぐことはできない。始の心身の活力は、ゆるやかに、だが確実に回復しつつあって、とくに怒りのエネルギーが全身の綱胞に浸透《しんとう》していくのがわかった。この醜怪な老人が弟たちに害を加える、そのようなことを許すわけにはいかなかった。 「それ、その目じゃ、気にくわんというたろうが」  田母沢の両眼が毒炎を発した。彼はチェーンソーのスイッチを切り、床に放り出すと、もう一度メスをとりあげた。 「お前は、わしに生命をにぎられとるのじゃぞ。もっと卑屈になれ。もっと恐怖に慄《ふる》えんか。助けてくれと泣きわめけ!」  じだんだを踏み、メスで宙を縦横に斬り裂いた。田母沢にとって、他人の苦痛と恐怖こそが健康のもとであったのだ。それが、この青年は、自分の無力と無防備をわきまえず、田母沢を喜ばせようとしない。逆上した田母沢は、始のあごを左手でつかんだ。右手のメスを始の顔に近づける。  左の眼球に、灼熱感が発生した。視界の半分が白濁した。苦痛が神経網を駆けぬけて、始はあやうく悲鳴をあげるところだった。田母沢が、始の左の眼球にメスの尖端を突きこんだのである。 「どうじゃ、どうじゃ、どれほどの武芸の達人でも、目玉を鍛えることはできんでな。お前のような化物でも、やはりそうらしいの。どうじゃ、思い知ったか、化物の非国民めが」  眼球に突き刺したメスを、田母沢はえぐりあげた。ばっと血が噴き出て、田母沢の右袖を赤く染めた。田母沢が振りかざしたメスの尖端に、えぐりとられた眼球の一部が突き刺さり、血をしたたらせていた。  始の顔の左半分も、流血に染まっている。苦痛は激しいが、始はついにうめき声ひとつあげなかった。激烈な怒りをこめて、健在なほうの瞳で田母沢をにらむ。勝ち誇った田母沢が、このとき、ようやくあることに気づいた。  始の全身が輝きはじめていた。鱗の外側を、青白色の光がつつみ、それが脈動しつつ拡大していく。呆然と数秒間を立ちすくんだ田母沢は、不意に我に返った。いまいましげに額の汗を手の甲でぬぐうと、声をうわずらせる。 「な、何じゃ、こけおどしをしおって。光ったからどうだというんじゃ。わしには大和魂があるのだ、恐れるとでも思うのか」  言い終えぬうちに、強烈な衝撃波が田母沢を後方へ吹きとばした。田母沢は驚愕のわめき声をあげつつ、宙を飛んだ。宙で両手両足を振りまわし、右の肘《ひじ》と背中から壁に衝突した。  そのときなお、田母沢の右手はメスをつかんで離さなかった。壁にたたきつけられ、床にずり落ちたとき、まがった腕が彼の顔面に来た。田母沢が愛用するメスは、持主の顔を、右の目から右の小鼻、さらに唇にかけて、やすやすと斬り裂いた。マッド・ドクターの顔がふたつに割れ、赤黒い血が飛び散った。そのときはじめて激痛がはじけ、田母沢は絶叫を放った。 「ひーっ、わ、わしの目が、わしの顔があ……!」  三歳の幼児を麻酔なしで生体解剖した男である。他人の苦痛はどれほど深刻なものでも平然と許容してきた。だが、自分自身の苦痛に耐える勁《つよ》さはなかった。つねに加害者としての立場にあった田母沢は、自分が被害者となることなど、想像もしなかった。そんなことが想像できる人間なら、他国を武力で侵略したり、他国人を生体実験にかけたり、そもそもできるはずがなかった。力に驕《おご》り、他国を踏みつけ踏みにじり、平然として反省の色も見せない、ゆがんだ一部の近代日本人の意識が、この男の醜態に集約されているようだった。 「ひいい、助けてくれ、助けて……」  田母沢は這《は》った。血と恐怖にまみれ、失禁でズボンをぬらしながら這う。その背後で、拘束具がはじけ飛ぶ音がして、何者かが起《た》ちあがる気配がした。脈うつ青白い光は、すでに部屋全体に満ちていた。       ㈽ 「覇王《ダイナスト》」の巨体が鳴動した。  乗組員たちにとっては奇怪な感覚であった。ここは本州の伊豆半島南方、日本の領海外の太平洋上である。海上に地震というものが存在するのであろうか。 「何だ、いまの音は?」  艦長室でサクソンバーグ大佐が眉をひそめると、副官のリッチモンド中尉がジョークを飛ばした。 「性能の悪いロシアの潜水艦が、浮上しようとして位置をまちがえたんじゃないですか」 「ふん、ありそうなことだ」  大佐が笑いかけたとき、どおん[#「どおん」に傍点]と強烈な衝撃が湧きおこって、壁にかかっていた大統領のパネル写真が大きく右にかたむいた。大佐は、笑顔の石膏《せっこう》を剥《は》がし落とすと、インターコムにむかってどなった。 「何ごとだ、報告せよ!」  返事は悲鳴だった。 「わ、わかりません、いえ、あ、あれは何でしょう、蛇、じゃない、あれは、あれは、ドラ……!」  語尾は恐飾で爆発し、異様な音とともに、インターコムは沈黙した。同時に、三度めの揺動がおそいかかって、サクソンバーグ大佐のデスクから、インターコムや書類やタイプライターが床へなだれ落ちた。かろうじて転倒をまぬがれると、大佐と中尉は艦長室を飛び出しだ。警報がヒステリックに鳴りひびき、廊下は銃をつかんだ士官、下士官、兵士で、ラッシュアワーさながらだった。サクソンバーグ大佐は、混乱する兵士たちを叱咤《しった》しながら、ようやく飛行甲板に出た。 「あ、あれは何だ?」  兵士たちの叫びを耳に受けて、サクソンバーグ大佐は見た。甲板上にそれを見た。 「ドラゴン……!?」  彼の認識は正しかった。それは竜であった。シンジュクを炎上させたレッド・ドラゴン。ヨコタ・べースを潰減させたホワイト・ドラゴンとブラック・ドラゴン。そしていま、「覇王《ダイナスト》」の甲板上に巨体をそびやかしているのは、全身が青くかがやきわたるブルー・ドラゴンであった。この世には、いったい何頭のおそるべきドラゴンが存在するのか。  竜の瞳は、深い深い海の色にきらめいている。左の瞳は閉ざされていたが、それが開くと、空虚な眼窩[#原本では「ウ冠」に「果」]《がんか》に、みるみる右の瞳と同じ色彩が満ちた。何かの理由で傷ついていたものが治癒《ちゆ》したのであろう。そして、その両眼がらんらんたる光をたたえて甲板上を見おろしたとき、世界の自由と正義を守る兵士たちは腰をぬかした。単なる恐怖をこえた神話的な畏怖が、彼らをとらえていた。 「覇王《ダイナスト》」を守るべき一三隻の僚艦——ミサイル巡洋艦一隻、フリゲート艦六隻、高速攻撃艇《FAC》六隻も、呆然としてなす術を知らぬ。ドラゴンめがけて、ミサイルや砲弾を撃ちこむべきか。だが、はたして効果があるのか。合衆国海軍が世界に誇る巨大空母を傷つけるだけではないのか。まして「覇王」は胎内に原子炉をかかえこんでいるのだ。原子炉が破損すれば核爆発が生じる。海や空が放射能で汚染されるのは知ったことではないが、自分たちまで吹っとんでしまうではないか!  恐慌寸前の沈黙が、「覇王《ダイナスト》」の内と外を支配しているとき、レディLことバトリシア・S・ランズデールは、小走りに艦内を駆けていた。端整な顔に、奇妙な表情があった。彼女は事態を知りながら、恐怖や狼狽と無縁であった。両眼は興奮にかがやき、呼吸は早い。  竜堂始をとらえていた実験病室の近くで、彼女は予期していたものを発見した。マッド・ドクター田母沢篤が、血と汚物にまみれた姿で、床を這《は》っていた。顔の半分を自らのメスで斬り裂き、落下した天井に直撃されて片脚をくだかれ、床が割れたとき突き出た金属片で腹をえぐられ、内臓の一部をはみ出させて、なおしぶとく、この生体解剖マニアは息があった。ふと目をあげた田母沢が、片目をかっと見開いた。 「こ、この毛唐《けとう》女め、謀《はか》りおったな……」  まだ口をきく力が残っていたのだ。爬虫類的な体力であった。田母沢がもうひとりいれば、喜んで生体解剖のメスをふるったにちがいない。田母沢自身が、生命学上の驚異というべきであった。  レディLは、好意のかけらもない微笑で、怪異な老人に応《こた》えた。 「何のことをおっしゃっているのか、わかりませんわ、ドクター・タモザワ」 「とぼけるな……わしにメスをとらせれば、どのようなことになるか、きさまは知りつくしておったはずだ。わしをだまして利用したな。あの男を、あの男の力をめざめさせるために……」 「解釈はご自由に」  嫣然《えんぜん》と、また冷然と、レディLはあざけった。 「メスをにぎって死ねるのだから、ドクターも本望でしょう。生体解剖された者の気持をゆっくり味わいながら旅立ちなさい。とどめを刺してあげるほど、わたしはあなたに好意を持っていませんので」  醜悪にうごめく老人に背を向け、レディLは甲板に向かった。兵士たちの制止や誰何《すいか》の声も無視して彼女はついに飛行甲板に出た。そして至近に見たのだ。青くかがやく巨竜の姿を。  説明しがたい感情が、レディLの胸をつらぬいた。彼女は大きく息をついた。「ブルー・ドラゴン……」とつぶやく自分の声を、レディLは憶憬《どうけい》の声と聴いた。指先まで彼女は歓喜に満たされて、竜へと歩みよりはじめた。  レディLは自分の正体をさとった。彼女はドラゴンに恋した女だった。レッド・ドラゴン個体にではない。ブルー・ドラゴン個体にではない。ドラゴンに、竜種に恋したのである。そのことをレディLは自覚した。日本に来てから、まだ半月にも満たぬ。その間に、紅竜の出現を見た。白竜と黒竜の登場を見た。そしていま、彼女の眼前に青竜がいる。青玉《サファイア》をしのぐ燦然《さんぜん》たる鱗。その姿をこそ、レディLは欲していたのだ。卑小な人間の肉体から解放され、美と力感に満ちた竜の真の姿を。彼女がこれまで蓄積してきた怨念も野心も、薄いガラスのように砕けて、レディLは超自然への崇敬《すうけい》がうながすままに、ためらいもなく、ブルー・ドラゴンへと近づいていく。 「あの女、何のつもりだ」  そのありさまを遠望して、サクソンバーグ大佐はうなった。彼のような男には、レディLは単なる裏切者でしかなかった。いや、この女は「四人姉妹《フォー・シスターズ》」の代理人、国防総省のだいじな協力者として見せかけながら、じつは最初から共産主義者の手先だったにちがいない、と、サクソンバーグ大佐は信じた。彼にとって、世の中には黒と白しかなく、正義を守るアメリカ軍とそれを妨害する共産主義者とが存在するだけだった。 「あの女め、最初からドラゴンをめざめさせる気だったな。まちがいない。思い知らせてくれるぞ」  左右の部下たちをかえりみて、彼はどなった。 「あの女を撃て! 撃ち殺せ!」  サクソンバーグ大佐は、レディLの背中を指さした。女を背中から撃て、という命令は、兵士たちを一瞬ためらわせたが、断固たる命令がくりかえされると、拒否する理由も拒否できる自由もなかった。一〇丁近い自動小銃がレディLに銃口を集中させた。  発射音がカスタネットのように連鎖した。レディLの背中に赤黒い穴が一ダース以上もはじけ、服地が引き裂かれた。貫通した銃弾が、レディLの胸にも三つの赤い斑点をつくった。女王のような女は、半回転して倒れるときも女王のように傲然《ごうぜん》としていた。甲板に倒れ、レディLは撞憬の相手にささやきかけた。 「ドラゴン……ブルー・ドラゴン、わたしを……つれていって……」  レディLの肺に血があふれ、それが気管と咽喉《のど》を逆流して、口から流れ出た。レディLは声を失った。背中の苦痛と呼吸器の苦痛が合流して、彼女の意識を乱打した。急速に視野がかげり、彼女は竜にむかって片手をあげた。完全にあげることができないうちに、手は力を失って甲板に落ちた。  深い海の色の瞳をレディLにむけて、凝然とながめやっていた青竜が、このとき長大な頸《くび》を高々とかかげた。咆哮《ほうこう》がほとばしった。大気が鳴りひびいて、兵士たちは見えない鞭《むち》で一撃されたように、銃をとり落とした。すわりこんで失禁する者がいるかと思うと、気絶して倒れこむ者もいる。 「何だ、いったいどうした。!?」  サクソンバーグ大佐の、頭ごなしの問いは、副官リッチモンド中尉のあえぎによって返された。 「艦が、艦が動いてます……」  恐怖のあまり歯の根があわぬ。 「上へ動いています! 宙に浮いているんです……神よ!」 「うろたえるな」  サクソンバーグ大佐はわめいた。自分自身の恐怖を、どなり飛ばそうとしたのだ。彼の周囲では、兵士たちが頭をかかえてはいつくばり、口々に神の名を呼んでいた。甲板が右へ左へと揺れつづけている。 [#天野版挿絵 ]  いま、原子力空母「覇王《ダイナスト》」は、海面上に浮いていた。九万一九〇〇トンの巨体が、海面から離れ、宙に持ちあげられている。透明な径物が、艦体を持ちあげているように見えた。いや、それは数瞬のことでしかなかった。「覇王《ダイナスト》」は海面上にもどっていた。「覇王《ダイナスト》」が落下したのではない。海面が持ちあがったのだ。「覇王《ダイナスト》」や僚艦を載せたまま、大海の一部が上昇しつつあった。直径一キロをこす海水の巨大な柱が、大海の表面から伸び、ぐんぐんと空へむかって伸びる。伸びる。その周囲は強烈な嵐となり、波と波が激突して飛沫をはねあげた。唖然《あぜん》としたサクソンバーグ大佐の眼前に、竜が顔を近づけてきた。 「ひいっ、ひいっ、あわわ……」  一見紳士風の合衆国海軍軍人は、いまや美しい英語の破壊者と化していた。サクソンバーグ大佐は、意味をなさぬわめき声とともに、拳銃を乱射した。命中したかどうかわからぬが、命中したところで何ら効果はなかったであろう。  青竜の首が大きく振られると、サクソンバーグ大佐の身体は、甲板上から一撃ではね飛ばされていた。同時に、甲板上にいた兵士たちは、ことごとく絶叫を放ち、宙に身を浮かせた。ジエットコースターに乗って急降下するような感触が彼らをとらえた。彼らの周囲で重力が失われていた。甲板上の戦闘機もヘリも、すさまじい気流のなかで天にむかって動力なしで舞いあがる。 「す、すてきだ。こいつはすてきだ……」  ドクター・クランショーは、うっとりとつぶやいた。研究室で、舞いあがった実験器具やタイプライターとともに空中遊泳し、天井にぶつかりながら、彼の夢を追っていた。 「反重力だ。重力制御だ。すごいぞ、これは中性子爆弾どころじゃない。これを兵器化すれば、ロシアなんかこわくないぞ。モスクワを街ごと空の彼方へ吹き飛ばしてやるんだ。へへへ……アメリ力ばんざい! 資本主義よ永遠なれ……」  このとき、アメリカ合衆国コロラド州にある北米航空宇宙防衛司令部《NORAD》では、偵察衛星から送信されてくるモニターの画像の前で、要員たちが声と息をのんでいた。身動きする者もおらず、視線を画画に吸いつかせ、理性と、唯一神への信仰とがはじけ飛ぶ音を、耳の奥に聴いていた。 「おお、神よ、神よ、こんなことがあってよいものでしょうか。私たちは夢を見ているのか、それとも、世界じゅうが夢を見ているのでしょうか……」  うつろな声が室内をただよっていく。答える者は誰もいなかった。  世界最強の原子力空母「覇王《ダイナスト》」は、数億トンの海水とともに、さらに上昇をつづけ、ブルー・ドラゴンの姿とともに大気圏の果てへと飛び去っていった。 [#改ページ] 第六章竜入戦線       ㈵  東京都千代田区永田町の首相官邸で、日本国首相は昼食をとっていた。赤坂の高名な料亭から鰻重《うなじゅう》を運ばせたのだ。デザートのメロンまでぺろりとたいらげて、首相は、爪楊子《つまようじ》で歯をせせった。 「いやあ、夏はやっぱり鰻《うなぎ》が一番だね。夏ばてする時季だからこそ、きちんと栄養をとらなくてはね」  戦後最大の汚職事件と、準備期間もろくにおかず強引におしすすめた税制度改悪。首都から地方へと波及する地価高騰。首相個人の蓄財と脱税に関する疑惑。いつまでもつづくかに見える首都の過剰警備。それらに国民の批判と反感が集中していた。いくつもの政治的パンチをあびせられ、内閣支持率も 一〇パーセントを割りこむほどに落ちこみながら、首相は平然として食欲も落ちず、夜はぐっすりよく眠っている。 「私は日本一、しんぼう強い人間だからねえ。何ごとも天の試練と思えば、つらいことなんかないよ。ふへふへふへ…………」  笑いながら、熱いお茶をすするのだった。 「いや、政治家とは、そうありたいね。無責任なマスコミやら無知な国民やらを気にすることはないよ。あいつらは代案もなく、ただ批判すりゃいいと思っとるんだ。心ある愛国者は、みんな君の味方だよ」  友人ぶった口調で、こびへつらってみせたのは、与党の幹事長である。つぎの首相は自分だと思っているが、力ずくで政権を奪うつもりはない。現在の首相にこびへつらって、檻力の座を譲り受けさせてもらうつもりだった。 「ありがとう、まったく、いい友人というのはありがたいものだ。私の苦しみをよくわかってくれるからねえ。私が政治家になって手にした最大の幸福とは、首相になれたことではなく、君という友人をえたことだよ」  首相はハンカチを出し、涙をぬぐうふりをしてみせた。彼は陰謀と買収の末に、幹事長を蹴《け》おとして、自分が与党総裁の座につき、首相になったのだが、そんなことは、おくびにも出さない。  幹事長のほうも、感涙にむせぶふりをした。 「こちらこそ礼をいうよ。友情というものの真価がわかる人間はすくないからねえ。ぼくとしては君の気高《けだか》い理想を実現するために、生命《いのち》がけで協力させてもらうつもりだよ」  ふたりがハンカチの蔭で、相手に見えないよう舌を出しあったとき、すさまじい音がした。彼らのいる部屋のドアが、埃《ほこり》とともに室内に倒れこんできたのである。仰天したふたりの目に映ったのは、四人の人影であった。 「首相官邸がテロリストに襲撃され、首相と与党幹事長が拉致《らち》された」  そのニュースがごく一部の人間にだけ秘かに伝達されたのは午後二時である。このとき、空母「覇王《ダイナスト》」の艦上では、竜堂始が、天宮の夢からさめつつあった。  地下鉄永田町駅には、さまざまな噂がついてまわっている。この駅が地下あまりに深く建設され、正体不明のドアがあったり、広い立入禁止区域があったりするため、「いざ核戦争やクーデターが発生したというときに、首相が逃げこむためのシェルターが併設されているのだ」といわれていた。むろん政府では、全面否定している。  その否定が正しいとすれば、いま自分たちがいる場所は、どこなのだろう。年少組ふたりの手でていねいに破壊されたシャッターを、竜堂続は皮肉の効《き》きすぎた視線でながめまわした。首相と幹事長を拉致した兇悪なテロリストは、竜堂家の次男坊・三男坊・末っ子とその従姉妹《いとこ》の四人組で、平均年齢一六歳ちょっとである。というより、四人あわせて、人質ひとり分の年齢であった。 「き、君たちは何者だ」  幹事長がうめくと、シャッターをたたきこわした鉄パイプを床について、終が答えた。 「親には孝行、兄には従順、弟にはやさしく、食べ物には感謝のこころ。にっこり笑ってビルをこわす。さすらいの美少年テロリストとは、おいらのことさ」  余が拍手し、続と茉理が苦笑した。 「……ひょっとして竜堂家のご兄弟とは君たちかね」  幹事長より、はるかに目先のきく首相が、さぐるように問いかけた。四人の兇悪犯は無言だったが、それを肯定の表現と首相は受けとった。すると、とたんに元気になって、彼は舌をぺらぺらと回転させはじめた。 「何だ、それならこんな早まったまねをすることはなかったのになあ。私のほうこそ君たちを探してたんだよ。君たちの叔父さんと話しあいもしたことだしね」  一同には、これは初耳だった。靖一郎叔父となら、せこい者どうし、さぞ話があったことだろう、と、続も終も思ったが、口には出さない。茉理の心情を思いやったからである。首相のほうは、ほとんどもみ手せんばかりの態度でさらに舌を回転させつづけた。 「いや、じつはね、君たちの超絶的な力のことを知ることができてね、ぜひ日本のために役だってもらおうと思ったんだよ。秘密捜査官になってもらおうと思ってねえ」  続が眉をひそめた。 「秘密捜査官ですって?」 「そうだよ。超法規の秘密捜査官だ。首相、つまりこの私に直属してだね、悪い奴らをやっつけてまわるんだよ。法律にしばられることなしにだ。かっこいいと思うだろう。誰でもなれるものじゃない。君たちだけ、特別に任命してあげるよ」  恩着せがましく、首相は少年たちを見まわしたが、感動したような顔はひとつもなかった。最年長の、はっとするほど美しい若者が、清例《せいれつ》な声に皮肉をこめて尋ねた。 「首相、あなたは、近代国家というものはどういうものか、ご存じなんですか」  竜堂続の礼儀ただしさが、どれほどおそるべきものであるのか、首相は知らない。だが何となく圧倒されて、「ええと」などとつぶやいていると、鋭く切りこまれてしまった。 「近代国家というのは、元首だって最高権力者だって、きちんと法律を守らなきゃならない、そういう国のことをいうんですよ! いちばん日本の法律を守らなくてはならない人が、超法規ですって? あなたはいったい、近代の人間なんですか。ぼくたちを大新聞の政治部記者と同列に見ないでいただきましょう」  首相は口をもぐもぐさせた。たしかに、この少年たちは、「追及」という言葉を知らない、権力者の言いなりになる政治部記者より、よほどシャープだった。だが、しょせん子供だ。何とかごまかせるはずだ。首相は甘く見た。これまで何をやってもごまかしおおせてきたので、その手法の有効さを疑う気になれなかった。 「そ、それではだね、何でもほしいものを君たちにあげるよ。文化勲章はどうだ? 勲一等がいいかな。芸術院賞でも国民栄誉賞でも好きなものをあげますよ」 「そうとも、何でもいってごらん」  幹事長も熱心に口をそえた。年が下のほうから二番めの、元気そうな少年が、あきれきって肩をすくめた。 「噂以上のおっさんだなあ。さっきから聞いてるとさ、自分の懐《ふところ》が痛まないですむ方法ばっかし考え出してるぜ」 「こづかいがほしいのかね。だったら五〇〇〇億円でも一兆円でもあげるよ。なあに、一般消費税の税率を一バーセントあげたら、それくらいの金銭《かね》は、すぐに集まるからね。遠慮しなくてもいいんだよ」 「一兆円?」  思わず身を乗り出しかけた終が、はっとわれに返ってせきばらいした。 「やめた。増税の共犯になるのは、まっぴらだね」 「よく魂を売るのを思いとどまりましたね、終君。すこしは進歩したといってあげましょう。それにしても、この種の人間がふたりもいると、うっとうしくてたまらないでずね」  指先で、続が額に浮かんだ透明な汗の玉をはじいた。 「どちらかひとりだけ解放してあげましょうか」  その声を聴いた首相と幹事長は、汗まみれの顔を見あわせた。狡猾《こうかつ》な表情が、彼らの面上にひらめいて一瞬で消えた。続の目はそれを見逃さなかった。 「さて、どちらが解放されるにふさわしい人でしょうかね。それぞれの主張をうかがいましょうか」  首相が目を光らせて進み出た。 「わ、私を解放してくれたまえ。私はこれからの日本に必要な人間なんだからね。生命をかけて、日本の政治を改革しなきゃならんのだよ。だから幹事長を人質に残してくれたまえ」 「何を自分勝手なことをぬかす!」  わめいて、幹事長は首相を押しのけた。体格からいえば、幹事長のほうが、ひとまわり以上大きい。押しのけられた首相は、よろめいてただひとりの女の子——鳥羽茉理にしがみついたが、振りはらわれて、コンクリートの床に尻もちをついてしまった。その間に、幹事長は、自分こそ解放される価値がある、と熱心に主張をはじめていた。 「君たち、この小ずるい男にだまされちゃいかんぞ。政治改革なんて、この男が政界を引退すれば、それで実現できるのだからな。こんな私利私欲だけの奴が首相でいるものだから、日本はいつまでも政治後進国とばかにされるんだ。将来の日本のために、私のほうを解放してくれ」 「だ、だまらんか、この卑法《ひきよう》者」  ようやく立ちあがって、首相は幹事長のネクタイをつかんだ。 「私の理想のために協力する、と、ついさっきほざいたのは誰だ。恥知らずめ、もう前言を忘れたか」 「お前こそ、今度の総裁は君だ、将来の日本は君にまかせる、と、いつかそういっただろうが」 「誰がお前みたいな低能に政権をわたすものか。お前が幹事長になって以来、選挙でわが党は負けっぱなしじゃないか。ここに残ってゆっくりと反省しろ」 「何だと、こいつ。できそこないの土偶《どぐう》みたいな貧相な面《つら》をしやがって!」 「うるさい、この風船ガム野郎!」  ふたりあわせて一二〇歳になる超大国ニッポンの有力政治業者ふたりは、自分たちの地位も年齢も忘れ、つかみあいをはじめた。ネクタイを引っぱり、襟首をしめあげる。ボタンがちぎれ飛び、幹事長の眼鏡は床に落ちて割れてしまった。ぜいぜいあえぎながら、汗だくになってつかみあう権力者たちのありさまは、猿山のボス猿の争いよりずっと観物《みもの》であったが、いつまでも見物している余裕はない。 「いいかげんにして下さい、暑くるしい」  続が軽くふたりを分けた。すんなりした優美な身体つきの若者が、かるく手を動かしただけで、首相と幹事長は、ごろごろと数メートルも反対方向へ転がされてしまった。壁にぶつかって、幹事長はぼうっとしているが、首相のほうはやにわに立ちあがり、つんのめるような姿勢で逃げ出した。 「人それぞれですね」  つぶやいた続は、べつにあわてもしなかった。次兄の横顔をちらりと見た終が、体重のない者のような身軽さで疾走した。首相の襟首をつかみ、そのまま慣性で走りつづけながらUターンして、もとの場所へもどってくる。首相が、へたりこんだ幹事長のそばに放り出されるまで、五秒そこそこしか要さなかった。放り出された首相を、幹事長はむっつりと横目でにらんだが、あらためてつかみかかる元気は、さすがにもうない。 「そうそう、仲よくしていらっしゃい。ついさっきまで、無二の親友だったおふたりじゃありませんか」  意地悪くたしなめてがら、続は腕時計を見た。そろそろ、ボスを失った内閣が、何らかの交渉をしかけてくるだろう。ふたりの権力者を人質にして、長兄をとり返す。計画の成否は、これからの交渉にかかっていた。不安は、時間に余裕がないことである。       ㈼  虹川《にじかわ》耕平《こうへい》、蜃海《しんかい》三郎《さぶろう》、水池《みずち》真彦《まさひこ》、松永《まつなが》良彦《よしひこ》の四人(?)は、虹川の自動車で東京都内にはいりこんだ。戒厳令にひとしい過剰警備といっても、いや、それだけに、虹川が持つ警察手帳の威力は大きい。国道四号線を南下して御茶ノ水駅の近くまで来たとき、停車していたジープを見て、後部座席でふんぞりかえっていた脱走自衛官が、いきなりそのままの姿勢でシートからずり落ちた。「やばい」と一言。松永良彦が不思議そうに友人の顔をのぞきこみ、助手席から蜃海が何ごとかを問うた。答える水池の声が低い。 「烈士会の奴らだ」 「烈士会って何だ?」  蜃海の問いに、水池が答えていうには、烈士会とは陸上自衛隊内部の、「ま、風紀委員会みたいなもんさ」というのであった。約八○人の有志から成り、陸上自衛隊内でリベラルな言動をしたり、政府や上層部に批判的であったりする者を、私刑《リンチ》にかけてまわる。ナチス・ドイツ初期の突撃隊と比較したら、ほめすぎになるだろうが、愛国者と自称して集団でサディズムをほしいままにする点は、まったく同じだ。  むろん、そんな集団が存在することを、陸上自衛隊は認めてはいない。認めるはずがない。また「烈士会」のほうでも、「自分たちの目的はリベラルな連中をリンチにかけることだ」などという綱領《こうりょう》をかかげているわけでもないから、本気でとりしまるとしてもむずかしいことにはちがいなかった。  ちなみに、水池が彼らににらまれているのは、べつにリベラルな政治思想を持っているからではなくて、何かというと彼らをおちょくったり、からかったり、コケにしたりしたからである。学校でいえば風紀委員会と応援団をかねたような体質の連中が、水池は生理的に大きらいだった。  で、身体をずりさげて、彼らに見えないようにしたつもりだったのだが、まぬけな話である、相手の車高が高いので、水池の姿が彼らには見えてしまった。あっと声があがって、烈士会の男が六人、ばらばらと車の周囲をとりかこんだ。あらあらしく、窓ガラスをたたく。ひとりが奥歯を丸見えにさせてわめいた。 「水池、きさま! こんなところにいやがったのか」 「やあ、戦友諸君、黄海《こうかい》の波高くして、定遠《ていえん》はまだ沈まないかね?」  日清《にっしん》戦争時代のギャグを、水池は飛ばしたが、松永良彦君をふくめて誰も感心してくれなかった。 「よくのこのこ出てきたな。きさまをつかまえるために、おれたちは特命を受けて探してたんだ」 「ボーナスは出るのか」 「うるさい、とっとと出てこい。市ケ谷につれていったら、自分の軽率さをたっぷり後侮させてやるぞー」  蜃海《しんかい》にむかって、水池は声をひそめた。「知ってるか、市ケ谷の防衛庁の地下五階には世界一の拷問室があってな、拷問のコースがいくつもあるんだ」 「ふんふん、たとえば?」 「富士コース、浅間コース、箱根コース、蔵王《ざおう》コース、別府コース。さて、このなかでひとつだけ他とちがったコースがありますが、どれでしょうか」 「別府コースだけが九州で、他は本州だな」 「いや、富士だけが湿泉がない」と虹川《にじかわ》。 「はずれ。蔵王コースです」 「どうして?」と蜃海。 「あとの四つには、おれは行ったことがある」 「そんなことがわかるか!」 「いいかげんにせんか、お前ら!」  どなって、烈士会のひとりが、後都座席のドアに手をかけた。その瞬間、水池は車内からドアを蹴りつけた。ロックはすでに解かれている。相手は半ばドアをかかえる形で吹っとび、一八○度回転して車体にたたきつけられていた。ぐうとうめいて地上にへたりこむ。顔と胸を打って、かなりのダメージを受けていた。先制攻撃をまぬがれた烈士会の男たちが顔色を変える。 「水池、きさま、反抗するか!」 「反抗も何も、お前らの命令にしたがう義務なんぞ、最初からありゃしねえよ」 「そうか、やはり、きさま、過激派のシンパか某国のスパイだったのだな。白状させてやるのが楽しみだ。そいつらは、きさまの仲間か」 「大家《おおや》だがね」  うんざりしたようすで答えながら、虹川も運転席から外に出た。二年間乗ってきた愛車を、どうやらここで捨てねばならぬと思うと、残念でもあり腹もたつ。のんびりした挙措《きょそ》から、電光のように動いた。烈士会のひとりが左|顎《あご》にヘビー級のパンチをくらい、宙に浮いて吹っとんだ。あとは一挙に乱闘になる。 「アクションは、あんたらにまかせたよ」  文治主義者を自認する蜃海は、助手席から車外に出て、見物を決めこもうとしたが、烈士会のうちふたりが血相かえて彼のほうに駆けてきたので、いささかあわてた。歩道の端に置かれていた生ゴミ容器の後方にまわって、しっしっと手を振ったが、むろん効果はない。歯をむきだした烈士会員が、生ゴミ容器を躍りこえようとしたが、バランスをくずし、わっと悲鳴をあげて、生ゴミに顔をつっこんだ。  勇敢な松永良彦君が、烈士会員の脚にかみついたのだ。蹴とばそうとする会員のもう一方の脚を避けて、松永君は身軽に飛びのき、くるりと方向転換すると、蜃海につかみかかろうとしたもうひとりの脚にかみついた。罵声をあげて蹴りつけようとしたときには、もうとびはなれて、元気よく挑戦の声をあげる。 「ふうん、松永にはどうやらブルテリアの血がまじってるな」  感心した蜃海は、はたと気づいて、生ゴミのバケツをかかえあげた。「おい」と声をかけ、反射的に振りむいた相手の顔に、生ゴミごとバケツをたたきつける。不運な烈士会員は、生ゴミにまみれ、バケッを頭からかぶってひっくりかえった。  六人の烈士会員は敗北した。四人は長々と路上にのび、松永君に脚を噛《か》まれたあげく生ゴミのバケツでなぐられたふたりだけが、よたよたと逃げていく。水池も虹川も、それぞれ相応になぐられたり蹴られたりしたが、ふたりずつKOしてのけたのだから、なかなかりっぱな戦果といえよう。逃げていくふたりの背中に、水池が、あざけりの声を投げつけた。 「くやしかったら、今度はもっと多勢でやってこい。お前らなんぞ、一個小隊で来ても、片手でかたづけてやるぞ」 「ばか、よけいな挑発をするな」  虹川がいったとき、逃げるふたりの前方に、トラックが停車するのが見えた。野戦服を着用した自衛隊員たちが、口々に叫び声をあげて路上に飛びおりる。二、三十人はいるであろう。 「そら見ろ、一個小隊が来てしまったぞ」 「うーん、何という素直な奴らだ」  水池や虹川が、いくらケンカの達人といっても、竜堂兄弟のような超人ではないから、闘うにも限界がある。蜃海や松永はあわせて一人前だし、銃など持ち出されては万事休すだ。 「転進! 転進! 退却にあらず」  三人と一匹は、ほとんど無人と化した神田《かんだ》駿河台《するがだい》一帯の街を駆け出した。二、三十年前には、日本の学生運動の中心部で、学生と機動隊の追いかけっこが毎日のように演じられた場所である。古ぼけた大学の建物が、追う者と追われる者とを、なつかしげに見おろしていた。       ㈽  永田町駅の構内につれこまれて、まだ三〇分ほどしか経過していないが、首相と幹事長にとっては半永遠にもひとしかった。この暗くて狭い地下世界では、権力も、富も、陰謀も談合も、そして根まわしも通用しないのである。つまりふたりの初老男は、まったく無力な存在であった。  第二次大戦後、いや、近代日本史上はじめて、テロリストの魔手から生還した奇蹟の首相。このフレーズは悪くないな、と、日本国首相は考えた。ただ、フレーズが完成されるためには、無事に生還して、記者会見にのぞまねばならぬ。いかにテロリストでも、武器を持たず、しかも子供だ。だまくらかす策はいくらでもあるにちがいない。性懲りもなく、首相はそう思案をめぐらした。 「なあ、君たち」  首相は仔猫を並べてなでまわすような声を出した。非好意的な八本の視線をこらえつつ、どこまでも下手《したて》に出る。 「君たちは勲章もお金銭《かね》もほしくないという。みあげた心だ。何という清らかな精神だ。まほろばの大和心《やまとごころ》を人問わば、朝日に匂う山桜花……」 「まほろばの、ではなくて、敷島《しきしま》の、ですよ」  ひややかに、続が訂正した。首相がまちがって引用したのは、むろん本居宣長《もとおりのりなが》の有名な歌である。 「それで、今度は、いったい何ごとを口にして、ぼくたちをだまそうっていうんですか」  続の皮肉を、首相は、聴こえないふりをしてみせた。 「いや、だから君たちは、いったい何がほしいというんだね。聞いてあげるから言ってみたまえ」 「ようやくそこに気づいてやんの」  首相の鈍感さを侮辱する台詞《せりふ》を、終がもらしたが、それにも首相は知らぬ顔である。国会でも記者会見でも、つごうの悪い質間は無視するのが、首相の特技であった。それはともかく、続にとってはこの質問には答える価値があった。 「兄の身の安全です」 「君たちの兄さん?」 「とぼけないで下さい。政治的外交的なバックアップと引きかえに、竜堂始をレディLとかいう女に売ったでしょう」  続の指摘は、完全に事実であった。証拠は何もないが、おおかたそのあたりだろう、と、見当をつけたのである。首相は目を白黒させたが、すぐにおそれいるような男ではなかった。幹事長が鼻を鳴らした。 「お前のやりそうなことだ。自分の利益のためなら国民も売るんだからな」 「ま、たしかにいいことではないわな」  うそぶいた首相は、続の強烈な眼光に出会ってたじろいだ。すでに壁ぎわにいるのに、後退するそぶりをし、あわてふためいて掌を振る。 「いや、私はだまされたんだよ。私も被害者なんだ。あの女、マリガン国際財団の代表とやらいう女が私をだまして、だましただけでなく脅迫して、むりやりいうことをきかせたのであって、私はシュクシュクとしていうなりにならされたのだからして……」  何をいっているのやら、途中から自分でもわからなくなっている。 「ではシュクシュクとして、アメリ力軍と交渉していただこうじゃありませんか」  続がいやみっぼく首相の言葉づかいを模倣してみせたとき、破壊されたシャッターのむこうで物音がした。人間の集団の気配が押し寄せてくる。竜堂家の年少組ふたりが勢いよく立ちあがった。とうとう機動隊が精鋭をすぐって実力行使に出てきたのだ。首相と幹事長が生色をみなぎらせるのを見やって、終が兄弟たちにウィンクしてみせた。 「ここはおれにまかせなよ。ひとりで充分。助勢は、かえってじゃまにならあ」  かるくジャンプして、終は、破壊されたシャッターの上を飛びこえた。余が続を見やる。末弟にむかって続がうなずく。五秒ほどの間をおいて、終のとんでもない歌声が流れてきた。  ひとつ他人《ひと》よりケンカずき  ふたつ不死身のケンカずき  みっつみごとなケンカずき  よっつよくよくケンカずき  いつついつでもケンカずき  むっつ無敵のケンカずき  ななつ何よリケンカずき  やっつやっぱりケンカずき  ここのつこんなにケンカずき  とおでとうとうケンカした!  一行歌うごとに、機動隊員の攻撃をかわし、同時にしたたかな反撃を加える。その間、動作はまったく停滞したり中断されたりしない。跳び、はね、前転し、後転し、横転し、空中で回転する。トランポリンの上で床運動をやっているようなリズムとスピードだ。ジュラルミンの盾をキックでまっぷたつにたたき割る。機動隊員の手から警棒をはねとばす。躍りかかる隊員の身体を利用してひょいと馬とびし、ついでに後方への軽いキックで、相手の尻を蹴とばして顔から床へつんのめさせる。  なぐるける、は、充分に手かげんしている。終が手かげんしなければ、機動隊員の身体は、風船のように破裂してしまうだろう。同時に、その戦闘力は確実に削《そ》いでおかねばならなかった。そのあたり、条件を両立させるのは、かなり困難であるのだが、それをやってのけるのが、個人戦闘の天才児であるゆえんである。  三分間で、機動隊員はひとりのこらず、封鎖された永田町駅の広い薄暗いホームにはいつくばった。合計六〇名、柔道・剣道・空手あわせて三五〇段の猛者《もさ》たちが、少年ひとりの手で、KOされてしまったのだ。首相と幹事長がいなかったら、催涙ガス弾ぐらいは使えたのだろうが、肉弾戦に徽しなくてはならなかったために、このありさまだった。  ほとんど呼吸も乱さず、ホーム上で両手をはたいた終が、さっと戦闘姿勢にもどった。 「まだいやがったのか、誰だ」 「待ってくれ、おれだよ、自衛隊随一の良識家だ」  その声に、シャッターの蔭から続が顔を出した。つい先日、戦車《タンク》ジャックに加担した自衛官が両手をあげて近づいてくる。それにつづくふたりの男を見て、続はかるく目をみはった。 「たしか虹川先輩、でしたね。どうして、こんなところにいらしたんです?」  竜堂兄弟にとっては、共和学院の先輩たちであった。三人めの男を見て、終が身がまえをといた。親しげな声を投げる。 「蜃海さんだろ、たしか。祖父さんの葬式で会ったし、年始にも来たよな」 「おぼえていてくれたか」 「お年玉くれた相手は、終兄さんは忘れないよ」  余が真実を語ったので、一同は哄笑《こうしょう》した。とにかく終と水池が初対面である他は、「あ、そういえば」という仲である。だいたいにおいて、竜堂兄弟は年長の社会人に隔意《かくい》をいだいているが、この三人が精神的に竜堂兄弟と同類であることはわかったし、古風な私立学校生の精神が彼らを結びつけたのだった。  地下鉄シェルター内で共和学院の同窓会がおこなわれるのは、ふたりの政治業者にとってうれしくも何ともないことだった。それでも首相はまだ懲《こ》りずに、新来の男たちにささやきかけた。 「き、君たち、私を助けてくれたら悪いようにはせんよ。ええと、話をきけば、君は警官だそうだから、警視総監にしてあげよう。君は自衛官だというから、統合幕僚会議議長だ。それに君は新聞記者だったな。私の秘書にしてやって、いずれ代議士だ。でもって、二、三度は大臣にしてあげてもええぞ」 「私が大臣になるまで、あなたが首相でいられるとも思えませんなあ」  蜃海は突き放した。その間に、虹川が竜堂兄弟に、これまでの事情を説明している。松永良彦君は、余との間に友情を成立させて、末っ子のひざの上にすわりこみ、背中から首すじにかけての毛をなでてもらって気持よさそうだった。終が手を差し出してもそ知らぬ顔なのは、まさか食べられると思ったからではないだろうが。  ひととおり事情を聞いて、続は口を開いた。 「ぼくたちは今さらどうしようもありませんし、どうするつもりもありません。でも、先輩がたは何も進んでトラブルの渦中に身を投じる必要はありませんよ。大臣だの総監だのはともかく、まともな市民として生きていけるでしょうに」  続の忠告は、柄《がら》にもなく穏当《おんとう》なものであったが、三人の年長者は顔を見あわせて苦笑しただけであった。 「いや、綺麗な兄ちゃんのお説はもっともだが、おれたちはもう首相と幹事長に顔と正体を知られちまったからな。これを隠しとおそうとすれば、ふたりの頸《くび》をちょいとひねるしかないんだ」 「なるほど。それしかないよなあ」  水池が危険な視線を向け、終が賛同のうなずきをすると、この日、親友と仇敵の間を高速で往復しているふたりの政治業者は、ひええ、と、なさけない悲鳴をあげて身をちぢめた。 「わ、私は何もしゃべらんよ」 「私、私だってそうだ。だいたい私は忘れっぽいんだよ。君たちの顔も正体も、別れて五分もすれば忘れてしまうよ。公約だって、当選したその日のうちに忘れてしまうんだから」  助かるためなら、自分自身をおとしめることも辞さないというわけである。ついに幹事長は肉の厚い掌《てのひら》をあわせ、七人と一匹に増えた兇悪なテロリストたちを、おがみはじめた。 「たのむ、助けてくれ。助けてくれたら私は仏門にはいるよ。権力も金銭もすてて清らかに生きる。その前に君らに日本を脱出させてあげるから、助けてくれ」  幹事長のたわごとなど、誰も信じなかったが、蜃海が続を見やって尋ねた。 「外国へ行く気なのか、君たちは」 「兄が外国にいればね」  簡明に続は答えた。外国といっても広い。長兄の始は四人姉妹とそれに協力するアメリ力軍によって拉致《らち》されたのだから、アメリカないしアメリカ軍の基地が置かれた国、ということになるだろう。兄さんはどこへつれていかれたのか。弟たちや従妹の手前、表情に出すのをつつしんでいたが、続は内心、不安の鋭い細刃にさいなまれていた。と、弟たちのひとりが、そっと話しかけてきた。 「ね、続兄さん」 「何ですか、余君」 「ぼくたちが日本を出て行く方法があるよ。誰にもじゃまされずにさ」  瞳を黒い宝石のようにかがやかせて、余は提案したのだ。 「竜になるんだ」  続は、わずかに、睫毛《まつげ》の長い目を細めて、末弟に話をつづけさせた。 「ぼくたちが竜になったら、警察や自衛隊が何しようとかまいやしないでしょ。三人で悠々と日本を出て行って、兄さんがどこにいたって探し出せるよ。いい考えでしょ。ただ問題なのは……」 「そう、ただ問題なのは茉理ちゃんですね。彼女をどうやってつれていくか」 「そんなの簡単さ」  あっさりと、終が解決案を出した。 「おれたちが竜になったら、茉理ちゃんを背中に乗せてやればいい」 「終君、君、竜になっている間のことをおぼえていますか」 「うーん、それは……」  終は絶句した。次兄のシビアな指摘が何を意味するか理解できたのだ。終自身もそうだが、続も余も、竜身に変化したとき、人間にもどるまでの記憶がまったくない。人間としての意識が中断しているのは明らかであった。とすれば、茉理に対しても何をしでかすかわからない。長兄の始だけが、どうにか竜身と人身との変化を不充分ながら制御することができる。そしていまその長兄が不在なのだ。  ここで首相がまたよけいな口をはさんだ。 「しかしねえ、私がいくら頼んでも、アメリ力軍はいうことを聞いてくれないかもしれないよ。まあ、何というか、その、私はしょせん彼らにとって外国人だからねえ。だからしてだね……」 「そのときは、それでけっこう」  たたきつけるように、続は、首相の舌の回転をとめた。  首相を人質にしたまま、アメリカ大使館に乗りこむという策《て》もある。逆に首相が足手まといになったとしたら、その時点で放り出す。流血や破壊が竜堂兄弟の目的ではない。だが、長兄を救出するためなら、流血も破壊も、あえて回避するつもりはなかった。  昨夜以来ずっと四人は眠っていなかったが、すこしも眠くはなかった。心身が高度に賦活《ふかつ》化され、どんな修羅場《しゅらば》もくぐりぬけられそうだった。それは、誰もがうっかり失念していたが、竜堂兄弟だけでなく、鳥羽茉理もそうだったのである。       ㈿  アメリカ合衆国、ワシントンDC。日本とは一四時間の時差がある。深夜O時三〇分、合衆国大統領ユージン・フォレスターは、コロラドの航空宇宙防衛司令部から緊急のTV電話を受けた。これに先だって、同司令部ではつぎのような会話がかわされていた。 「直接、大統領に報告しますか、将軍」 「国防長官レベルでかたづく話ではなさそうだな」  短いやりとりの末に、司令官マッケンジー中将は、ワシントンDC、ホワイトハウスへの直通TV電話の送話器をとりあげたのである。ひとつには、国防長官ワレンコフが、無能ではないが好色・大酒・放言と三拍子そろったトラブル・メーカーで、軍官僚たちから毛ぎらいされているという事情があったのだ。 「大統領閣下、当司令部に送られてきました偵察衛星からの画面を転送いたします。ごらん下さい。映画ではございません」  空母「覇王《ダイナスト》」に何ごとが生じたか、大統領は自分の目で確認した。効率的な説明をマッケンジーから受けると、大統領は呆然自失の状態から完全に立ちなおれぬまま声を押し出した。 「……で、どうなる」 「このままだと、一〇分ほどでソビエト領空を侵犯することになります」  マッケンジーは陰気なほど冷静に指摘した後、やや声を興奮させた。 「おわかりですか。合衆国海軍の空母が空を飛んで、ソビエト領空を侵犯するんですぞ。極東ソビエト軍に攻撃されても文句はいえません。どう対処するか、ただちにご指示ください」 「在日の空軍部隊でどうにかできんのか」 「つい二、三日前、ヨコタ・ベースが全減したことをお忘れですか。ミサワやアツギの戦闘機群もドラゴンにやられて潰滅状態です。アラスカやグアムからの出動はまにあいません」 「わかった、三分間だけ待て」  送話スイッチを切って、フォレスター大統領は背後を振りむいた。安全保障問題を担当する大統預補佐官ダグラス・W・ヴィンセントが立っていた。 「ダグ、どうしたらいいと思うかね?」 「ぜひもありませんな。モスクワに事情を説明して手を出さぬようしてもらわねば」 「すると私はモスクワに頭をさげなきゃならんのかね。私の失態でもないのに」  あたかも失態を演じたのが航空宇宙防衛司令部であるかのように、大統領は、ヴィンセント補佐官をにらみつけた。ヴィンセントは、中央情報局《CIA》以来の部下で、能力からいっても、口のかたさからいっても、信頼に値する男だが、内心でフォレスターを、できの悪い生徒とでも思っているような節《ふし》がある。ありていにいって、彼は、四人姉妹《フォー・シスターズ》がホワイトハウスに送りこんだ男で、フォレスターが軌道をはずしかけたらそれを修正するのが任務であった。フォレスターは何かというと武力を誇示したり、他国の内政に必要以上の干渉をおこなったりしたがる。ソビエト共産党書記長に対しての対抗意識も強い。ヴィンセントとしては、責任が重大であるのだった。「方法はひとつだけあります。ドラゴンと『覇王《ダイナスト》』がソビエト領空にはいる前に、地上攻撃衛星を使用することです。歴史上はじめて、それを使用なさいますか」 「む、攻撃衛星をか……」  大統領はうめいた。これはソビエト領空侵犯に匹敵するほどの難題であった。ひとつには、地上攻撃衛星を保有しているという事実が、世界じゅうに知られてしまう。いまひとつには、世界最強の、建造費に五〇億ドルをかけた大空母を自らの手で破壊せねばならない。さらに、それによって当然、原子炉が破壊され、核爆発がおきれば、合衆国に対する各国の反応は厳しいものとなるであろう。ことに欧州共同体諸国《EC》はいまや巨大な政治的経済的統一体を完成させつつあり、合衆国を「力が強いだけのでくのぼう」と冷笑する態度があらわれてきている。フランスなど、大喜びで、アメリカのやりくちの粗雑さを批判するにちがいない。  とっさに決心できずにいる大統領に、補佐官は追い打ちをかけた。 「すでに極東ソビエト軍は、臨戦態勢にはいったようです。サハリン、カムチャツカ一帯で緊急通信波が飛びかっております」 「日本の首相は何をしとるんだ!」  CIA長官出身の大統領は大声でわめいた。責任の半分を押しつけるべき相手を見つけることができたのだ。 「世界第三位の軍事大国だろう。しかも自国のすぐそばでおこった事件だ。日本は昼間だろうに、奴は昼寝でもしとるのか!」 「日本国首相は現在、行方不明です」 「何だと、またセカンド・ワイフの家にでもしけこんでいるのか。それともリョーテイで利権あさりの相談か。どうせどちらかに決まっとる」 「それがどうも今回はちがうようで……」  補佐官は大統領の逆上をたしなめつつ、日本国首相が正体不明のテロリストに誘拐されたらしい、と告げた。このとき、世界の東端に位置するお金持の島国は、現実世界と神話世界にまたがるワンダーランドとなっていたのである。 [#改ページ] 第七章 ドラゴン・ミラージュ       ㈵  ……青竜王《せいりゅうおう》敖広《ごうこう》は、天宮での用件がすめば、すぐに水晶宮へ帰るつもりであった。だが、今回はそうもいかぬ。できればいまいちど玉帝にお目どおりして、再考していただきたいと思うのだ。天宮内の客館の一室で、牡丹《ぼたん》の園を見やりながら考えこんでいると、背後から声がかかった。  弟の南海《なんかい》紅竜王《こうりゅうおう》敖紹《ごうしょう》である。その衣冠は赤色系が基調で、深紅から朱、緋、橙、桜花などにおよび、要所を黄金と白銀がおさえている。見るからに艶麗で、天宮においてもっとも美しいとされる若者である。 「仲卿《ちゅうけい》か」  短くそう答えたきり、青竜王が沈黙したので、紅竜王はなぐさめるように笑顔をつくった。 「哥哥《あにじゃ》は、あまりお気が進まぬごようす。何やら屈託《くったく》の原因がおありですか」 「正直なところ、気にくわぬ節《ふし》がすくなからずある」  青竜王は苦笑に近い表情をたたえた。彼は竜種の長とはいえ、事を決するに、すべて已《おの》が一存というわけにはいかぬ。彼は弟に榻《とう》をすすめ、玉帝よりたまわった命令について語り、自分の意見をつけ加えた。 「牛種が強欲、横暴で、奴《やつ》らをほしいままにさせておくわけにいかぬこと、それはわかる。だが、主上はどうも牛種と竜種とを相争闘させ、両者を均衡させるとのご所存ではなかろうか」  牛種とともに竜種の勢力をも削《そ》ぐ。その思惑があるのは確実と思われたが、さりとてそう公然と口にするわけにもいかぬのだ。 「うかうかと拝命できませぬな。といって、勅命を拒むわけにもまいりませぬし、人界をすべて牛種の牧《ぼく》するところとなせば、これはこれで憂いの因《もと》」  紅竜王は、美しい眉をわずかにひそめた。牛種が、人界において並存並立《へいぞんへいりつ》するいくつもの信仰や文化を滅ぼし、自分たちをのみ神として崇敬させようとしていることは、誰もがにがにがしいことと思っているのである。ふと何か思いついたらしく、紅竜王の眉が開いた。 「太真王夫人《たいしんおうふじん》に話してみてはいかがでしょう」 「む……?」 「太真王夫人は西王母《せいおうぼ》の末娘で、一番かわいがられております。上元《じょうげん》夫人にも。太真王夫人を語らえば、崑崙の女仙界すべて竜種の味方となってくれるやもしれませぬ」  西王母は、いわば女神のなかの女神であり、天界の女神たちから地上の仙女まで、全員を統轄する、女帝のような存在である。上元夫人は、西王母の親友であり顧問であり補佐役であって、この女神ふたりに対しては、天界の長老たちも、いや、天宮の主人たる者すら、遠慮するのである。  紅竜王の提案に、青竜王は消極的な表情をつくった。「女の手を借りるのか」とはいわぬ。口にしたのは、つぎのようなことである。 「牛種とのことは、俗事のきわみだ。太真王夫人を巻きこみたくない」  むっつりとした兄の答えに、紅竜王は、あわい笑みを端麗な口もとにたたえた。 「おやおや、太真王夫人はきっと喜んで力を貸してくださると思いますが。恋しい御方の語らうことゆえ」 「戯言《ざれごと》をいうな、仲卿《ちゅうけい》」 「失礼しました。ですが哥哥《あにじゃ》、このままいけば、われわれ竜種は人界の支配をめぐって、牛種を相手に無意味な戦いを強《し》いられましょう。哥哥《あにじゃ》が人界の支配権など欲さぬということは措《お》きます。西王母のお力によって牛種の際限ない野心を抑制しうればそれも可なるか、と存じますが……」  そこへ瑠璃《るり》の扉をおしひらいて、年少の竜王ふたりが元気よく入室してきた。西海《せいかい》白竜王《はくりゅうおう》敖閨《ごうじゅん》と北海《ほっかい》黒竜玉《こくりゅうおう》敖炎《ごうえん》である。  白竜王敖閏の衣冠は白だが、やはり黄金と白銀が配され、さらに王族たるの証として紫色も配されている。黒竜王敖炎の衣冠は黒で、黄金と白銀と紫の配色がなされている。竜王たちの衣冠にあらわれる色彩は、むろん彼らの王号に相応しているわけである。天宮だけにとどまらず、自分たちの家である水晶宮においても、公式の場ではこれをまとう。 「太真王夫人のところに行くのか、哥哥《あにじゃ》」  白竜王敖閏が問う。長兄をからかう目つきであるが、むろん好意的なものである。ひとつには、哥哥《あにじゃ》にくっついて西王母の宮殴へ行きたいという気がある。あの宮殿は、何しろ女神や女仙の総本山ゆえ、女くさいのはどうしようもないが、そのかわり料理と酒は天界でも随一の美味である。窮屈《きゅうくつ》でかたくるしくて礼犠作法にやかましい天宮より、よほどよい。衣冠にしても、美しくはあるが、これを着るのは絹でできた作法を着ているようなもので、闇達不覊《かったつふき》な「西海の小白竜」としては、とんだりはねたりというわけにもいかぬ。天界の枢機にあずかるのは長兄と次兄なので、それを待つ間は退屈であるし、要するになるべく天宮にいたくないのであった。 「そなたらは、よけいなことを考えずともよい」  青竜王はいったが、あまり説得力はなかった。兄が弟の分まで苦労をしょいこむ性質《たち》であることを、弟たちは知っている。心づかいはうれしいが、水くさい、と、白竜王は思うのである。 「牛種の奴らは、どうも好かぬ。伯卿《はくけい》哥哥《あにじゃ》が牛種と戦うとおおせあるなら、おれは先陣に立って奴らと戟《ほこ》をまじえてもよいぞ」 「先ばしるな。こまった奴だ。好ききらいで天下を両分して戦えるものではないぞ」 「では哥哥《あにじゃ》は好きな相手と戦うのか」  これは単純なようで、なかなかに鋭い反論であり、とっさに青竜王ともあろう者が返答できなかった。徴笑した紅竜王が、一言も口をきかぬ黒竜王のようすに気づいて問いかけた。 「どうしたのです、季卿《きけい》どの。先ほどからおとなしいではありませんか」 「どこか身体でも悪いのか」  兄たちは末っ子に甘い。とくに長兄は、手を伸ばして、黒竜王の額に手をあてたほどだ。頭《かぶり》を振った少年竜王は、服の袖から小さな直方体をとりだして差し出した。天界の信書をおさめた箱だ。 「じつはこれをあずかってきたのです、哥哥《あにじゃ》がた」 「あずかってきた? 誰から」 「九天玄女から」  末弟の言葉に、兄の竜王たちは顔を見あわせる。九天玄女は西王母の使臣として高名な女神で、天界においても人界においても、西王母の代理人として動く。霊夢を見せる、という方法がもっとも多いが、天界であれば信誓を託す、という方法も使う。  信書を受けとって、青竜王は、通信鏡にはめこんだ。直径二尺の円形の鏡面は、銀色に曇っていたが、たちまち澄みわたって画像を浮かびあがらせた。それは成熟し、知性と母性との均衡をみごとになしとげた観のある美しい女性で、西王母以外の人ではありえなかった。四海竜王は、強制されたわけでもなく、大理石の床にひざまずいた。温かく微笑して、西王母は四人にあいさつし、用件にうつった。玉帝の命令についてであった。 「主上は牛種の暴発を危惧《きぐ》しておられます。彼らは自らの欲望がかなえられぬときは、天界全体を巻きこんで破滅させるかもしれませぬ。いえ、そのような事態はけっして神々が許しませぬが、おそろしいのは、人界が破壊されることなのです」  西王母はやわらかく話をつづける。重大きわまる内容であった。 「あなたがた竜種をして、牛種に抗させるのは、主上としては、苦しいご選択なのです。他の神々の一族では、残念ながら牛種の勢力に対抗できませぬ」  天界の主権者は、ようやく牛種に納得させたのであった。人界の争覇戦、すなわち殷周革命《いんしゅうかくめい》の機会を用いて、牛種と竜種との間に、勝敗を分かたせる。竜種に敗れれば、人界のすべてを支配することをあきらめよ、と。ただし、牛種が敗れても人界の半ばは牛種の支配にゆだねる、というのである。このとき牛種が殷に味方することを選んだため、必然的に竜種は周に味方することになる。ただそれも充分に配慮せねばならぬ。殷王朝それ自体の処置はあくまでも周にまかせ、またけっして牛種を滅ぼしてはならぬ。 「つまり、西王母さま、われらは人界において、周をして殷に勝たしめねばならぬ、しかも勝ちすぎてはならぬ、と、そういうことでございますか」 「そのようなわけです」  西王母の声は沈黙を呼んだ。四人の竜王は、それぞれに胸中に思案をめぐらせた。さしあたりの事情はわかったが、納得しかねる。青竜王は非礼にならぬよう用心しつつも、西王母の表情を観察せずにいられなかった。何かが竜王たちに秘密にされているように思えてならぬ。ただ、それでも問いつめる気になれなかったのは、西王母に対する信頼のゆえであろう。と、突然、憤慨の声があがった。兄たちが制止する間もなく、勢いよく立ちあがった白竜王が抗議をはじめたのだ。 「そんなことが許されるのかい、それじゃ、おれたち竜種にとっては、いいことひとつもないじゃないか」  宮廷的な措辞《そじ》を、白竜王は失念して、市井《しせい》の少年のことばつかいになった。鏡面の西王母にむかって、たてつづけに語りかける。 「戦えということなら戦うさ。勝てというなら勝つよう努める。だけど苦労して勝ったあげく、人界の半分は相手にわたせ、というんじゃあ、ただ働きも同じだぜ」 「叔卿《しゅくけい》!」  たしなめはしたが、青竜王は、弟を頭から叱りつける気にはならぬ。天界での指示を、損得だけで量《ほか》るわけにはいかぬが、それにしても不公平であるという観はぬぐえない。 「そもそも私ども竜種が必ず勝つとはかぎりますまい。仮に私どもが敗れたらどうなります」  青竜王の問いに、西王母は静かに応じた。 「牛種は要求するでしょうね。竜種をことごとく根だやしにせよ、と」 「主上は牛種に対して何か弱みでもあるのかよ」 「そのようなことはありませんよ、白竜王」 「じゃ、単なるえこひいき[#「えこひいき」に傍点]か。もっと性質《たち》が悪いや。西王母さまは天界のお目つけなんだから、そういうことがないようにしてもらわないと、おれたちが困るし、人界も困る」  西王母の口もとがほころびた。至高の女神は、元気のよすぎる「西海の小白竜」が、どうやらお気に入りのようである。べつに、名に共通の一字があるからでもなかろう。 「青竜王」  と、西王母の返答は竜王家の長兄に向けられた。 「これは現在だけの問題ではありません。ほんとうは、殷と周と、いずれが勝とうと、真の決着は三〇〇〇年の後になるでしょう」  一瞬の間を置いて、青竜王が問うた。 「もし牛種が勝ち、人界をわがものになせば、三〇〇〇年の後に人界はどのような状態になりましょうか」 「おそらく人界において数十億の人の生命が失われることになりましょうね」 「数十億、とおっしゃいますか」  事において動じぬ青竜王が、わずかに息をのむ。いま入界には幾人の男女がいるのか。すべての陸地をあわせて、一億をはるかに下まわる。その数十倍の人数が、生命を失うというのであろうか。 「牛種は三〇〇〇年にわたる人界完全支配の計画を樹《た》てています。その末に、天界全体も手中におさめようとしているのです。その妄執、野望は、とかく恬淡《てんたん》としがちなあなたがた竜種を、はるかに上まわります」  何と答えてよいやら、青竜王は沈黙のうちに西王母の言葉を反芻《はんすう》している。西王母の声にひそむ沈痛な波長を感じとらずにいられぬ。ついに彼は一礼して答えた。 「然《しか》らば、西王母さまの御意に……」       ㈼  ——山々が薄紫色にかさなりあっている。雲と霧が分かれたり混《ま》じりあったりして、ゆるやかに舞いつづけるなかに、平坦な土地と、松柏《しょうはく》の林が見えた。アジア大陸の深い深い内奥部である。会話している人々がいるようであった。声帯ではなく、精神感応の波を使っての会話である。 「青竜王の覚醒だが、いささか予測をこえたのではないか」 「いささかならず……」  苦笑めいた返答であった。問答する両者の他に、六個の精神の反応がある。合計八個。精神の所有者は七人の男性とひとりの女性である。それぞれに高名な存在である。肉体と精神を完全に制御できるものと信じられている。そこは彼らの本拠地であるが、じつは彼らに本拠地など必要ない。一見、山中の平凡な道観《どうかん》(道教寺院)である。のんびりと休息し語りあう場であるが、語りあうに必ずしも一堂に会する必要はない。それが地上であれば、万里をへても彼らの意識は会話をかわすことができる。 「殷周革命《いんしゅうかくめい》より三〇六〇年、竜種の雌伏はまさに一一七代におよぶ。放っておいても、覚醍の秋《とき》であった。人為《じんい》をほどこす必要があったかな」 「まちがうなかれ、だ。干渉したのはあちら[#「あちら」に傍点]のほうであった。三〇六〇年の過去にさかのぼって、恐怖を禁じえないのであろうよ」  誰かが茶をすする音がした。 「早くも三〇〇〇年を閲《けみ》したか、と思えば、あわてもするであろうさ。さてさて、竜王たちの覚醒にどう対処するであろうかの」 「ふむ、だがな、竜王たちをまず竜泉郷へ、という順序が、はなはだ狂うてしもうた。一挙に天界へ飛翔してしまうやもしれぬぞ」 「そうもなるまい」  とりこし苦労を、ゆったりした笑声がたしなめる。 「竜と化しえても、長きにわたってその姿形をたもつのは未だむりじゃて。飛ぶ前に、まず彼らには歩いてもらおうよ」 「東海青竜王だが、身は竜と変じても、人としての意識を眠らせてしもうたわけではないぞ。理性と意思のすべてをかけて、弟たちに、自らの所在を知らせようとしておる……まだ本来の力には遠いがの」  香がただよい、短い沈黙のなかをゆるやかに回流していく。 「ところで四人姉妹《フォー・シスターズ》とやらいう者どもはどうする。悪あがきする恐れもあるが」 「あがかせておくがよかろう。牛種が天界を脅迫して、人界をほしいままに支配すること三〇六〇年。いくつの多様な文明と信仰を滅ぼし、殺戮《さつりく》と収奪と奴隷化を強行してきたか。四人姉妹は、その最後の一〇〇年を、手先として動かしてきただけのことよ」  波長は激さず、むしろのんびりしている。それだけに、かえって辛辣《しんらつ》の気が強い。 「たかが一〇〇年。それを永遠の栄華と思いこんだのが、彼らのあさましさというものだな」 「それより青竜王の発信だが」  湿和な波長が話題を変えた。 「受信するがわもまだ未熟。見ていてはがゆい。すこし受信を助けてやってもよいかな」 「ふむ、よかろう、それくらいは」  八個の精神のうちひとつが、わずかに障壁を開いた。ひとつの精神波が異なるひとつの精神野にむかうのを、さりげなく中継しだのだった。 「余君、余君、どうしましたか!?」  続が末弟の身体を揺すった。兄と、従姉《いとこ》と、そして三人の男が、視線の環で少年を包囲した。余は起きたまま夢遊病者になってしまったように見えた。終は思わず弟の足もとを見たが、靴はちゃんと地に着いていた。地に着いていないのは、弟の魂のほうだった。 「見えるよ、始兄さん、たしかに見える……」  声がもれた。呼吸が深く大きくなり、目を閉じて、心だけが飛翔するかに見える。 「おい、余、しっかりしろ」  弟の右手をつかんだ終が、弱い電流に打たれたように身体をびくりと反応させた。勢いよく息をつぐと、兄にむかって叫ぶ。小さな叫びだが、全身のエネルギーがこもっていた。 「続兄貴! 余の手をとってみろよ、たしかに何か見える」  感覚の共有か。さとった続は、余の左手をとった。なるべく意識を空《から》にして、水がより多くコップに流れこむことができるように、と努めた。だが、ほとんど努力を必要としなかった。音をたてんばかりの勢いで、それは続の精神的な視野に流れこんできたのだ。思わず声をあげたかもしれない。靄《もや》がかかっていたが、見えたのは青真珠色にかがやく、わずかに彎曲《わんきょく》した地平線であった。飛んでいる。たしかに飛翔している。風を続は実感した。そして、そのなかに、位置を告げる兄の声を聴いたのだ。  茉理と、三人の男は、凝然として竜堂兄弟を見守っていた。蜃海《しんかい》が声をかけようとしたが、茉理が頭を振ってそれを制した。水池が三歩ほど後退し、しみじみとつぶやいた。 「いったいどうなってるんだ? いまさら何がおこってもおどろきゃしないが、いろいろと新鮮な経験ができるもんだな——と」  不意に片方の靴をぬぐと、水池は、手首のスナップをきかせてそれを投じた。木製机の表面を拳でたたくような音がして、不屈の精神力で逃げ出そうとしていた首相が、食用|蛙《がえる》じみた声をあげてへたりこんだ。一国の首相の後頭部に、靴が命中したのである。 「油断も隙もならねえ。もっとも、これくらいでないと、恩人や先輩を背後から蹴とばして権力をにぎるなんてことはできねえよな」  敬意のかけらもなく、不良自衛官は、法律上、彼の最高司令官にあたる初老男の襟首をつかんだ。短い手足をばたつかせながらついに首相は泣言《なきごと》を並べはじめた。 「わしは老人なんだ。もっとやさしくしてくれてもいいじゃあないか。老人をたいせつにしないような国は滅びてしまうよ」 「老人福祉の予算を毎年けずってやがるくせに、つごうのいいことをいうんじゃねえ。ああ、だんだん本気で腹がたってきたぜ。おれだって源泉徴収されるサラリーマンなんだ。納税者の怒りを思い知らせてやろうか」  水池が右手の拳に息を吐きかけたとき、続が立ちあがった。かるく手をあげて水池を制し、首相の正面に立つ。へたりこんだ首相は、救いをもとめて続のひざにとりすがらんばかりだ。それを無視して続は要求した。 「自衛隊の輸送機を用意していただきましょう。航続距離のもっとも長いやつを、もちろん燃料満タンでね」 「そ、それで解放してくれるのかね」 「要求がかなえられなければ解放してあげないことは確かですね。さあ、さっさと交渉してもらいましょう。立ってください」  立て、とどなられるより、はるかにおそろしい。そのことを、首相も幹事長も、いまでは承知していた。おどおどと、彼らは立ちあがった。彼らふたりと、男女七人の誘拐犯、合計九人と一匹の影は、永田町駅のホームに出て、交渉の相手を求め、呼びかけをはじめたのである。       ㈽  ホワイトハウスの一室で、ヴィンセント補佐官は、電話に向かっていた。外見、彼は年齢に比べて額が広すぎる、眼鏡をかけた、倣岸《ごうがん》な小男で、晩年のナポレオン・ボナパルトの生きた戯画《カリカチュア》であった。だが、ほんもののナポレオンなら、これほど鄭重《ていちょう》に相手と話すことはなかったであろう。 「つまりタウンゼントの監督不ゆきとどき、ということになろうかと存じます。同盟国の首都で中性子爆弾を破裂させるとは、あまりにも不手際。死者も出ず、日本のマスコミも知りませんが、これは奇跡であって、タウンゼントの手腕ではございません。はい、私はむろん自分の責任と義務を果たすよう、あいつとめます……はい、では」  電話は先方から切れた。受話器をもどすと、うやうやしくヴィンセントはそれにむかって一礼した。表情があらたまり、姿勢も一変した。ほんもののナポレオンに劣らぬほど自信に満ちた足どりで、ヴィンセントは自室を出て、フォレスター大統領の執務室へもどった。上司の不満の声が彼を迎えた。 「何をしていたのだ、呼んだらすぐ来てくれねば困るではないか」  口調は傲慢だが、大統領の内心としては、ヴィンセントの冷静さにすがりつきたい思いであるにちがいない。ヴィンセントは冷静というより、想像力を欠いていて地上の権力を信じこんでいるだけにすぎないが、とにかくその自信が、フォレスター大統領にとっては、頼りの杖《つえ》であった。 「モスクワとの連絡はつきましたか」  返答はわかっているくせに、ヴィンセントは尋ねてみた。フォレスターは不快感で口をゆがめた。その不快感は、ヴィンセントではなく、クレムリン宮殿の現在の住人に向けられたものであった。 「まだだ。ふん、あの尊大なはげ頭のアナグマめ。ひょっとしたらいまごろ失脚して、シベリアの奥地で黒パンと玉ねぎでもかじっとるのかもしれん」  低水準のジョークにつきあう気は、ヴィンセントにはなかった。彼が入室してから自分用の椅子に腰をおろすまで、四メートル半の距離を移動する間に、あらたな情報がはいってきた。極東ソビエト軍の出動は、もはや回避できない、と。 「そうか、そうと決まれば、こいつはおもしろい。極東ソビエト軍の真価をとくと見せてもらおうじゃないか」  フォレスター大統領は、完全に居直ってしまったようである。先日、在日アメリカ軍がドラゴンのために一方的にたたきのめされた。それを知ったときの大統領の怒りと狼狽は、たいへんなものであった。この怒りと狼狽を、クレムリンの住人も腹の底まで思い知ればいいのだ。  ヴィンセン卜補佐官は、自棄的な興奮に駆られる大統領のようすを、冷淡に観察していた。彼は大統領を補佐するだけではなく、その成績を採点する任をも帯びている。戦争をおこすにしろ、外国の政権をくつがえすにしろ、手ぎわよくあるべきであった。四人姉妹《フォー・シスターズ》の権勢は、ダイエットを必要としない。際限なく肥え太るために、巨大な栄養を欲する。技倆《うで》の悪いシェフは放り出されるか——消去される。  大統領がホワイトハウスから放り出されても、ヴィンセント自身は、次期政権の国務長官の座はほぼ確実である。競争相手であるウォルター・S・タウンゼントが、このところ非合法活動分野でやや精彩を欠くようすが見られ、ヴィンセントとしては、官僚的で個人的な喜びを禁じえなかったのである。  たしかに見物にまわる時期だ、と、ヴィンセントは思った。ただしほんの四、五分で、つぎの出番がまわってくるにちがいないが。  オホーツク海と、それをとりかこむ陸地、サハリン、千島《クリル》列島、カムチャツカ半島の一帯は、極東ソビエト軍の牙城《がじょう》である。西側世界からは「オホーツク要塞」という、いささかセンセーショナルな呼びかたをされることもある。かつて原因不明の領空侵犯事件をひきおこした韓国の民間旅客機が撃墜されたのも、この空域の南端近くであった。  その不可侵空域に侵入してきた飛行物体の存在は、極東ソビエト軍のおどろきと怒りをかきたてた。まずエトロフ島のレーダー基地から電波が飛んだ。 「未確認飛行物体、きわめて巨大な未確認飛行物体が、日本東方海上よりわが国領空へと飛来しつつあり。警戒せよ!」  これを受けて、サハリンとカムチャツカでは迎撃戦闘機群の発進が準備されはじめた。ことにカムチャツカの軍都ペトロバプロフスクカムチャツキー(長い名だ、と、竜堂終ならいうであろう)では、国防の第一線らしく、海軍基地の原潜まで秘密ドックを出て、太平洋最北部の冷水を艦首で切り裂きつつ、領海ぎりぎりの線まで突出してきた。  まず六機のミグ戦闘機がカムチャツカ半島東南部の滑走路から空へ舞いあがった。一半島とはいえ、カムチャツカは日本より広い。ほとんど無人の原生林上を飛び、オホーツク海を西南方向へ斜行する。出撃後一〇分、彼らは侵入者を発見した。それは興奮より恐怖をさそう光景であった。 「あれは何だ……?」  ソ連軍のパイロットたちは、自分たち自身の声を、はるか遠くに聴いた。オホーツク侮のはるか上空を飛行する巨大な未確認飛行物体。それはいわゆる「|空飛ぶ円盤《フライング・ソーサー》」のように見えた。それにしてもその巨大さ。半径は一キロをこし、厚さは一〇〇メートルにもおよぶであろう。あれだけの巨大な物体が、どうやって空を飛ぶのか。 「アメリ力帝国主義の新兵器か?」  そう思ったが、相手の正体をはっきり視認したとき、パイロットたちはぎょっと息をのんだ。空を飛ぶドラゴン。空を飛ぶ巨大空母。そして空を飛ぶ海。海からは数千のばかでかい水滴が、はるかほんものの海上へとしたたり落ちている。 「散開……!」  六機のミグは、完壁なタイミングで六方向へ別れた。あわく紫色をおびた青空を、六本の飛行機雲が切り裂いた。散開から再集結の数秒間に、戦術的対応をさだめなくてはならなかった。だが。 「わああッ」  驚愕の悲鳴が通信回路をつらぬく。パイロットの眼前に、アメリカ原子力空母の巨体が立ちはだかったのだ。一瞬で、彼我《ひが》の距離は五〇〇〇メートルからゼロへ減少したのであった。  ミグは機首をめぐらそうとした。すさまじいGの加重に耐えながら空中で方位を変えようとこころみる。パイロットの上下感覚が失調し、ミグは進むべき方位を失った。上にも下にも海がひろがっていた。  ミグは、下から[#「下から」に傍点]海面に突っこんだ。空中に浮かぶ海水の塊に突っこみ、高く高く水柱を噴きあげた。下方にむかって。そしてその光景が、ぬぐったように消え去ると、後には、空とほんものの海とが茫漠とひろがるだけであった。 「『覇王《ダイナスト》』はどうした!?」  大統領は絶叫した。ホワイトハウス、航空宇宙防衛司令部、それに国防総省やいくつものアメリカ軍基地を、恐怖と狼狽が直撃していた。オホーツク海上空、サハリン東方一四〇キロの位置にとらえられていた巨大空母が、一時的にレーダーから消えたのだ。消えっぱなしのほうが、まだましだった。ふたたび捕捉されたとき、それはさらに高く、地上五〇〇キロの衛星軌道上にあったのだ。 「九万トンをこす質量が、どうやって衛星軌道まで持ち運ばれたのだ」  大統領の声が高まるほどに、ヴィンセントは散文的な落ち着きをしめした。 「これは推定にすぎませんが、あのドラゴンは、おそらく重力と慣性を制御できるものと思われます」  フォレスター大統領は、濃くて太い茶色の眉をひくつかせた。 「ばかな、そんなことができるはずがない。どういう原理でそんなことができるのだ」 「とはおっしゃっても、ドラゴンの有する生物的能力について、正確な観察と、それにもとつく定説とがあるわけではありません。それはこれからできあがるのです。正確な観察と記録によってね」  これまでドラゴンにやられたアメリ力軍も、これからやられるソビエト軍も、そのデータを提供するだけの実験素材にすぎない。ヴィンセントはそういいたげであった。 「モスクワから直通電話《ホットライン》です。つなぎますか、大統領閣下」  その報がもたらされたとき、ヴィンセントは、ややそっけない笑いかたをした。 「先方からいってきましたな。極東ソビエト軍の航空戦力が大打撃をこうむったこと、うたがいないでしょう」 「そうか、そうだな、ふん、ざまを見るがいい」  大統領は、国家レベルをこえた発想ができない男だった。いままでアメリカ軍だけがやられていたのだから、今度ソビエト軍が痛い目にあうのは、公平な運命というものであった。 「大統預、計測しますに、ドラゴンは、ほぼ大圏航路にそって飛んでおりますが、この意味がおわかりですか」 「そ、それがどうした」 「日本のホンシュー南方海上からオホーツク海、カムチャツカ半島とくれば、当然つぎはアラスカということになりますな」  アラスカという地名が、大統領を刺激した。つまりそれは合衆国の一州であり、フォレスターの領地であった。西半球の地図が脳裏に浮かんだ。アラスカ、カナダ、そしてその先は……。 「ドラゴンが合衆国本土《ステーツ》を襲うというのか!」 「さあ、私はドラゴンのスポークスマンではありませんので」  思いきり性格の悪い台詞を、ヴィンセントは口にした。フォレスター大統領は、さすがに不快な表情で補佐官をにらんだが、ソビエト共産党書記長を電話の向こうで待たせていることに気づいたのであろう。一メートル近い歩幅で、ヴィンセントから遠ざかっていった。補佐官は短く鼻を鳴らし、ドラゴンがワシントンDCの上空に到達するまでどのていどの時間を必要とするであろうか、と考えたのであった。       ㈿ 「アメリ力とロシア(ソビエト)とは、つねに対立し対決してきたように見える。だが、実際に戦ったことは一度もない。二〇世紀にはいって、ドイツと戦ったことは二度もあるというのに。アメリカとロシアは、ほんとうに仲が悪いのか?」  そういう意見を述べる国際関係学者がいる。正確には、ロシア革命直後、アメリカ軍の小部隊が日本軍やイギリス軍とともにウラジオストクに上陸しているが、さっさと撤退してしまったから、戦争というような状態にはならなかった。そしてその後、資本主義の巨人と共産主義の巨人とは、子分どもにひっかきあいはさせても、自分たち自身でなぐりあいをやったことは一度もないのだ。  この日、ワシントンDCとモスクワとの間に、あわただしい契約が結ばれたことは、世界各国のどの新聞にも記事となって発表されなかった。二超大国が、共通の敵に対して、手を結んだのだ。第一次、第二次の両大戦のときと同じように、である。  これほどの大事件も、短時間のうちに続発したのであり、ソビエトの誇る衛星高度戦闘機群が、東シベリアのチタ基地から天空めがけて舞いあがったとき、まだ日本時間の三時前であった。  一二機のミグ60戦闘機は、実戦を展開した、歴史上最初の衛星高度戦闘機となったわけである。指揮官はザシーモフ大尉というベテランのパイロットで、火星への有人宇宙船のパイロット候補に擬《ぎ》されたこともある。  青緑色の巨大な宝石を眼下に見ながら、衛星高度戦闘機の群は、レナ河の上流域に達した。 「見つけたぞ、あれだ!」  ザシーモフ大尉の声が、通信波のなかでうわずる。地表から五〇〇キロの空間であった。地表は薄青い光の靄《もや》につつまれて見える。まるで青い水晶でつくられた空洞のなかにいるようにも思われた。その美しい世界を、殺人と破壊のためにつくられた六つのメカニズムは、音の神をあざわらうスピードでドラゴンに肉迫していった。  それから三分後。ただ一機のミグの姿も見えなくなった衛星高度を、天翔《あまか》けるドラゴンへ近づく物体があった。三分聞に、それは五〇〇キロの距離を移動し、ドラゴンを射程におさめている。その三分の時間をかせぐために、一二機のミグは犠牲となったのだ。米ソ共同作戦の美しい精華《せいか》ということになるのだろうか。  攻撃衛星。アメリカ合衆国が誇る軍事科学の精粋である。ただし公然とは誇れない。宇宙空間を軍事的に利用しないことは、人類社会の公的な協定となつている。  攻撃衛星の名はスカーレット。フォレスター大統領は、「風と共に去りぬ」の熱烈なファンで、そのヒロインの名を借用したのである。小説でなく映画のファンだ。フォレスターは、映画やTVを見れば原作小説を読む必要はない、と考えるタイブの男だった。  攻撃衛星スカーレットは原子力で稼動する輻射線兵器《ラディエーション・ウェポン》である。搭載したマグネシウムの濃縮ガスに原子炉のエネルギーをぶつけ、直径二四・五センチの電子の束をつくって目標物にぶつけるのである。  ドラゴンおよび「覇王《ダイナスト》」への距離は六〇キロ。有効射程一二〇キロのはるか内側である。  スカーレットは光線を発射した。彼女にとって最初の実射であり、効果をはかるための一撃であった。太平洋上から「覇王」にしたがわされてきたフリゲート艦の一隻が艦体中央部に穴をうがたれた。超高温の棒がフリゲート艦をつらぬいて消える。味方の艦である。だがすでに生存者はいないものとみなされ、試射の標的に供されたのだ。数秒の時差をおいて、フリゲート艦は爆発する。音もなく艦体は引き裂かれ、衝撃波によって宙に散らばっていく。  成功に勝ち誇って、スカーレットは真の敵であるドラゴンに狙いをさだめる。地上では、数百の目がモニター画画に視線を凍結させている。だが、発射の寸前、スカーレットに搭載されていたモニターカメラが、まったく突然に画像の送信をやめる。数秒、数分が経過し、送信はついに再開されない。 「だめだ、逆に破壊されたらしい」  軍事的優越をうちくだかれた者の、底知れぬ恐怖が、フォレスターの声にあらわだった。一〇年もの時が、彼の上を通過していったようであった。 「あれは完全生物というやつか。大気圏外の衛星高度で生きていける生物など、存在するはずがないぞ」 「はず、といういいかたはなさらぬほうがよろしいですな。現実を解決するのに何の役にも立ちません」  語学教師のような態度でお説教しながら、ヴィンセントの広すぎる額に、汗の小さな粒がつらなっている。自分の安全だけはたもてるという確信が、わずかにひびわれを生じていた。それでも、狂躁《きょうそう》寸前の大統領よりは余裕を持って、あるいは持ったふりをして、彼は大統領に意見を述べた。 「つぎはアラスカ北方、ボーフォート海のあたりで迎撃しますかな。こうなると、もはや、核ミサイルの使用も辞すわけにいきますまい」  ひと呼吸おいて、彼は大統領をおどしあげた。 「あるいは、ドラゴンの奴、「覇王《ダイナスト》」をワシントンDCの上まで運んできて、そこで落っことすつもりかもしれませんぞ」  それを聞いた大統領は、顔だけ見れば、もはや死者のように見えた。 [#改ページ] 第八章 ドラゴン・フライト       ㈵  その夏の一日、超大国ニッポンの首都とその周辺は、終日、大混乱におちいった。かというと、必ずしもそうではない。首相および幹事長が何者かに拉致されたこと、隅田川河口で中性子爆弾が爆発したこと、いずれも厳重な報道管制と交通規制によって、国民には知られず、みな不平をもらしつつも、おとなしい日常を守っていた。  国民性とか民族性とかいう、ナチス・ドイツが大好きだったものが実在するかどうかはともかく、日本人が権威や命令に弱く、個性より秩序を重んじ、自粛や自主規制を好む、という印象は、外国人のジャーナリストなどによく指摘されるところである。とにかく、他人とちがったことをしてはいけない。他の店が休業しているときに、一軒だけ開店していたら、どのような非難や中傷が集中するかわからない。その自粛とやらに、まったく法的根拠がないとしても、である。  若者が奇異な服装をしてみせるとしても、それはあらかじめ広告産業が売り出したフアッションを追っているだけにすぎないのではないか。「流行」などに何の必然性もありはしないのに、それと無縁の人々を「遅れてるう」と嘲笑する精神は、「自粛しないなんて非常識な」「戦争に反対するなんて非国民!」と言いたてる精神と、まったく同じである。時流、大勢、同調こそが、この国の絶対神なのだ。子供が小学校にはいって、体育のときに動作がおくれたりすると、教師の叱声が飛ぶ。「どうしてお前は、みんなと同じようにできないんだ。だめな奴だなあ」。みんなと同じように考え、みんなと同じように行動しない者は「変わっている」ではすまない。「劣っている者」「悪い奴」とみなされるのである。かくして、学校では制服を着、外では流行のファッションという制服をまとって、「みんなと同じように」行動する人間ができあがり、就職試験のときなど、全員が同じ髪形と服装で企業の受付に列をつくるというわけだ。  一九八八年末に、皇居の門前で記帳がおこなわれたとき、その列に並んだ女子高校生が明言した。 「こういう風潮には、進んで乗らなきゃ」と。風潮に疑問をいだいたりしてはいけない。バスに乗りこんで、乗りこもうとしない人々を罵倒するのが、日本人としての正しいありかただ、というところであろう。乗りこんだバスの行方など考えもしないのである。  さて、中野区の哲学堂公園近くにある竜堂家に、竜堂兄弟の叔母である鳥羽|冴子《さえこ》がやってきたのは、日本国首相が幹事長とネクタイの引っぱりっこに熱中している時刻であった。共和学院の公用車が交通規制で進めなくなったので、炎天下を三〇分も歩くはめになったのだが、彼女はべつに疲弊《ひへい》したようすもなかった。同行の鳥羽靖一郎氏は、すでに濡れきったハンカチで顔じゅうを拭《ふ》きまわしながら、それでも笑みを絶《た》やさない。竜堂兄第が姿を消し、彼らの家が鳥羽家の管理するところとなったからであった。  血層堂家の内部は、ボルターガイストが一個小隊で暴れまわったあとのようであった。証拠物件を押収すると称して、警察が大規榛に家捜《やさが》ししたのである。荒らしまわったまま、いままさに引きあげようとする刑事に、冴子の声が飛んだ。 「ちょっとお待ちなさい!」 「何ですか、奥さん」  ふてぶてしく振りむいた中年の刑事の鼻先に、鳥羽冴子は弾劾《だんがい》の指を突きつけた。 「この散らかしようは何ですか! あなたがた警察は、あとかたづけという日本語を知らないの! 他人の家に勝手にあがりこんで、品物を持ち出し、あとかたづけもしない。これでは泥檸《どろぼう》とどこがちがうんですか。ちゃんと整理してから出ていっていただきます!」  昂然《こうぜん》たる彼女の傍で、靖一郎は立ったまま失神しそうになった。警察にケンカを売るなど、彼にとっては神への叛逆《はんぎゃく》にもひとしい。同じように刑事も感じたのであろう、刑事は底光りする目を細めて、冴子をにらみつけた。 「奥さん、言葉に気をつけてもらいましょうか」 「わたしは思ったことをいったまでです」 「日夜、社会の治安を守って努力している警察にむかって、泥棒とは何ですか。あまり失礼なことをいうと、こちらにも考えがありますぞ」 「そんなえらそうな台詞《せりふ》は、誤認逮捕や冤罪《えんざい》事件をなくしてからおっしゃい。いまどき、警察がやることは全面的に正しいと思うような無知な人間が、どこにいると思うの。市民の信用を失ったのは、あなたがた自身の傲慢さが原因なんですよ」 「…………」 「さあ、かたづけるの、かたづけないの? かたづけずに帰るなら、それこそ、こちらにも考えがありますよ。あなたがたが帰ったあと、わたしたちの手で整理して、後日になって証拠を隠滅《いんめつ》したなんて因縁《いんねん》をつけられたら、たまりませんからね。どうしたの、早くなさい!」  刑事の顔は、熟れすぎたトマトの色になった。両眼に殺意がこもり、肩が慄《ふる》えたが、いくら何でも一般市民、しかも女性を白昼の路上でなぐりつけるわけにはいかない。「家のなかをかたづけろ」と部下に命じた声のすごみは、靖一郎をふたたび失神寸前に追いこんだが、冴子はゆっくりうなずいただけであった。 「そう、最初からそう素直にいえばいいんですよ。おおざっぱなところで許してあげますからね」  何とか室内を整理しおわって、ふてくされた刑事たちが帰っていくと、元気をとりもどした靖一郎は、声をはずませて妻に相談した。 「いつ転居《ひっこし》してこようかね」 「言っときますけど、ここはわたしたちの家じゃなくて、あの子たちの家ですよ。わたしたちは留守をあずかるだけなんですからね」 「しかし、これだけ大きい家だ。空き家にしとくのは惜しいじゃないか」 「転居するのはかまわないでしょう。人が住まない家は、どうしても荒れますからね。新学期までに落ち着くようにしましょうか」 「うんうん、ではそうしよう」  靖一郎はうれしさを隠しきれなかった。彼は竜堂司の生前から、この家の書斎や応接室がほしくてたまらなかったのだ。竜堂家の書斎は、共和学院における主権者の城であり、靖一郎にとっては権威と名声の象徴であった。司が死去し、まだ大学生だった,始がその書斎を受けついだとき、嫉《ねた》ましさと。口惜しさで、靖一郎は身もだえしたものであった。それがついに靖一郎のものになるのだ。「見ろ、最後には正義が勝つのだ」と叫びたいほどにうれしい。  もっとも、出ていった竜堂兄第がいつ帰ってくるかわからないが、だからといって死んでしまえと思うほどには、靖一郎は悪党ではない。なるべく遠くの新天地で幸福に一生を終えてほしいものであった。ただ、彼なりに娘の茉理を心配してはいるので、娘だけは婚期を逃さぬうちに帰ってきてほしいと思っているに」  自分の夢に酔っている夫を書斎に残して、冴子は玄関にもどった。前ぶれなく勢いよく、内びらきの扉をあけると、ポーチで聞き耳をたてていた花井夫人が、大きくのけぞりつつ飛びあがった。器用な人だ、と冴子は思った。 「どちらさまでしょうか、いったい」 「い、いえね、近所の者です。単なるお隣りなんですけどね」  幅の広い身体をくねらせて、花井夫人は何とか家のなかを覗《のぞ》きこもうとしたが、細身の冴子には一ミリの隙《すき》もなかった。 「どのようなご用件でしょう」 「あ、いえね、べつに用はないんですけどね、何ですか、警察の人が来てたようで……何かあったんですの」 「べつに」  難攻不落の壁を、花井夫人は感じた。何とか突破口を開かねばならない。ひきつった笑顔をつくって、もみ手するふりをする。 「で、あの、竜堂さんのご兄弟は、もう帰ってらっしゃいませんの?」 「あなたに申しあげる必要はございません」  まあ、何と憎たらしい女だろう、と、花井夫人は内心で舌打ちした。あの兄弟の叔母とかいうだけあって、協調性や社会性のかけらもない。やっぱり過激派のシンパだろうか。だが、ここで怒ってはならぬ。正義の戦士に短気は禁物である。 「まあ、それは失礼いたしました。あの、耳にはさんだんでございますけど、転居してらっしゃるのでしたら以後よしなに……」 「つきあう相手はよく選べ、と、亡くなった父が申しておりました。これから室内をきちんとかたづけねばなりませんので失礼します」  形だけの一礼につづき、玄関のドアは風をおこして閉ざされてしまった。しばらくの間、ボーゼンとその場に立ちつくしていた花井夫人は、やがて憤怒の形相ものすごく、自分の家へともどった。床を踏み鳴らして居間へはいる。夏ばて気味で午後から帰宅していた花井氏は、怒りくるった妻から、隣家に関する悪口雑言のハリケーンをあびせられた。息をきらし、麦茶をコップに六杯、たてつづけに飲みほすと、花井夫人は断定した。 「わたしが思うに、竜堂兄弟は逃げ出したりしていないわっ。屋根裏か地下室にひそんで、きっと、どこかの国の軍隊が助けにくるのを待つつもりなのよッ」 「お前ねえ、『アンネの日記』じゃないんだよ。それに警察がやってきて、上から下まで捜索していったじゃないか」 「まぬけな警察に何がわかるもんですかッ」  気の毒に、警察は花井夫人にまで見離されてしまった。妻が何もしてくれそうにないので、花井氏は自分でそうめんをつくることにして、キッチンで材料を探しはじめた。探しながら、熱のない声を肩ごしに投げかける。 「で、お前、自分の説が正しいことを証明するために、どうするつもりだい?」 「もちろん、地道《じみち》に監視をつづけるのよ! 夜も昼も関係ないわ。わたしの目をごまかせるもんですか。ふんふんふふふんッ」  ま、それもよかろう、と、花井氏は思った。竜堂家が空家になっても、夫人が目を光らせていれば、泥棒が侵入することはないにちがいない。結果として世のためになればいいさ、と、彼は達観したのだった。       ㈼  航空自衛隊|百里《ひゃくり》基地は、白々とした夏の陽の下で静まりかえっている。滑走路上にはただ一機、九人と一匹の乗客をのせたC1輸送機が離陸寸前の状態にあるだけだ。  輸送機のなかには、座席にすわってベルトをしめたテロリストもいれば、まだ歩きまわっているテロリストもいた。 「妙なことになってしまったなあ。まあ自分の足でやってきた道だから文句もいえんが」  虹川《にじかわ》がつぶやいた。今日の朝まで、彼は、無断欠勤していたとはいえ、警視庁刑事部の若手警部補として、まっとう(に近い)人生航路を送ってきたのに、いまや国外逃亡犯である。彼の隣の席では、松永《まつなが》良彦《よしひこ》君が、いちおう人間に属する友人にベルトをしめてもらっていた。 「おい、松永、喜べ。一歳にもならんうちに海外旅行へいけるなんて、人間でもめったにないぞ。いずれちゃんと恩返しをしろよ」 「わん」  松永君は短く答えたが、べつに感動したようでもなかった。犬には時差ぼけがあるのだろうか、と、水池《みずち》はしょうもないことを考えた。  テロリストに同行を強制された首相が座席で、声を慄《ふる》わせた。 「わ、私らもいっしょに行かなきゃならんのかね。私らはもう外国へ行くのは飽きてね、国内の温泉のほうがいいなあ」 「遠慮する必要はありませんよ。あなたの大好きなワシントンへ行くかもしれないんですからね。ホワイトハウスに伺候《しこう》して、バスルームで大統預の背中でも流してあげたらどうです」  続の声は、グリーンランドの万年氷床より冷たい。脈絡のないことを口走った首相は、げっそりと肩を落とした。彼と並んで座席に腰をおろした幹事長は、永田町からヘリで百里基地に運ばれて以来、ひとことも口をきかない。観念したのではなく、放心しているのだろう。もとから苦《にが》みばしった顔つきではないが、いまや口をあけっぱなしで、ぼんやりと宙を見つめている。  すでにパイロットが二名、操縦室にはいっている。身体検査は虹川がした。制式拳銃が二丁、それにミネラルウォーターと食糧も運びこまれた。すべて缶入りなのは、薬物の投入を防ぐためである。  兇悪なテロリストたちと交渉をおこなったのは、内閣官房長官だった。自ら百里茎地におもむいた彼は、いま、基地の司令塔で警察庁長官と会話をかわしている。 「とにかく報道管制はつづけてくれ。首相がテロリストに拉致されたと知れたら、わが党の政権は崩壊してしまう」 「かしこまりました。ですが今日いっぱいが限度です。各新聞、政治部はいくらでもいいなりになってくれますが、社会都が騒ぎだしては、ちょっと抑《おさ》えられません」  いまいましげにつぶやいて、警察庁長官は襟もとに風を通した。 「以前は、政治部が社会部を抑えこんでくれたものですが、あれ以来、新聞の政治部は信用をなくしてしまいましたからな。まあ奴ら自身の腑甲斐《ふがい》なさですが……」  あれ[#「あれ」に傍点]というのは、一九八九年二月末におこなわれた、当時の前首相の記者会見である。R社から不法に大量の株券をもらったといわれた前首相が、各新聞の政治部記者だけを集めて記者会見をおこない、一方的に自分の無実を主張したのだ。そのときの政治部記者たちの質問ぶりが、なまぬるいどころか、八百長《やおちょう》としか思えぬほどいいかげんなものだった。 「あれは左翼政党が私をおとしいれようとしてでっちあげた事件だ」という前首相の発言に対して、 「それほど悪質なでっちあげなら、なぜ告訴しないのか」というていどの追及すらしなかった。同じマスコミ仲間のTVや週刊誌があきれはてて、「インチキ記者会見」と批判したほどのお組末さであった。 「たしかに身から出た錆《さび》だな。だが、彼らに協力を頼むしかあるまい」  つぶやいた内閣官房長官は、自嘲に似た表情を隠しきれなかった。 「何とか明朝までに結着をつけたい。それまでは抑えてくれ、頼むよ」 「は、全力をつくします」  疲れきった表情の内閣官房長官に、疲れきった表情の警察庁長官が一礼したとき、緊張しきった声が報告をもたらした。 「輸送機が動き出しました!」  ふたりの長官は声をのんで滑走路を見やった。輸送機は銀色の機体を夏の陽にきらめかせて、滑走路を走りはじめた。スピードがあがり、轟音が暑熱の大気を波うたせ、やがて車輪がコンクリートの路面から離れた。機首があがり、輸送機は夏空へむけて飛びたっていった。 「あとは彼らにまかせるしかないな」  内閣官房長官が自分自身に言い聞かせた。彼らとは政治部記者のことではなかった。  上昇をつづける機内では、虹川が広い肩をすくめていた。 「これで密出国が罪状のひとつに加わったわけだ。罪名がこれでいくつになったやら。おれたちを起訴する検察官は大変だぞ。それにしても……」  いまさらのように顔をしかめる。 「おれたちは社会のエリートのはずだったのになあ。どこで道をまちがったんだろう」 「共和学院にはいったときさ」  蜃海がいったが、冗談としてはシビアすぎたようだ。誰も笑わない。口を開いたのは水池だった。 「おれは共和学院に行ってないけど、りっぱに道をまちがったぜ」 「そういうのって、独立独歩っていうんだね」 「お、えらいぞ、坊や、よく四字熟語を知ってるな」  水池と余は、妙に気があって、何やかやと話しはじめた。終も加わり、「見たくないもの。男のシンクロナイズド・スイミング!」などといっては笑いあっている。ふと円形の窓の外を見やって、続が形のいい眉を動かした。航空自衛隊の最新鋭戦闘機、F何とかが翼をきらめかせて宙を並走している。それも一機ではない。反対側の窓にも戦闘機の姿を確認して、続は低く笑った。 「どうやら戦闘機がおともしてきたようですね。撃墜するつもりかな」  首相が顔と全身をひきつらせた。 「ば、ばかな、だって私らが乗ってるんだよ。首相と幹事長が乗ってる飛行機を、自衛隊が撃墜したりするもんか」 「首相や幹事長の椅子があくことになるわよね、あなたがたがいなくなると」  茉理が冷静に指摘し、首相と幹事長が、あわれっぽい声をあげて頭をかかえた。思いあたる節《ふし》が多々あるということだろう。もっとも、続にしても茉理にしても、すぐに戦閾機が射撃してくるとは思わない。威嚇《いかく》だろうと思う。虹川がうなった。 「これで北東方向へむかうと、今度はソ連空軍のミグさんがお迎えにあらわれるかもな」 「その点はご心配なく。兄さんが行手の空を掃除してくれましたからね。空はもともと軍隊なんかのものじゃない。陸も海もそうだけど……」  怒りと侮蔑を、続は優雅な声にこめた。飛行機を発明したライト兄弟が、軍用機の出現に激怒したという話がある。「軍人どもは、大空まで人殺しの場所にするのか!」答えは「そのとおり、何が悪い」だったのだ。  水池がベルトをはずし、立ちあがって操縦室に顔を出した。ふたりのパイロットは非武装だし、人質や輸送機自体が危険になるようなまねをするとも思えないが、油断してはならない。と、パイロットのひとりが小首をかしげた。 「どうした、親愛なる空の勇士さん」  パイロットはまじめな自衛官なので、水池のたわごとには反応しなかった。 「通信を傍受したんだが……アメリカ軍のようすがおかしい」 「どうおかしいんだ?」  水池が拳銃の銃身で肩をたたくので、パイロットは返答せざるをえなかった。アメリカの、とくに空軍の戦力が、あわただしく合衆国本土《ステーツ》北方空域に再集結しつつあるらしいのだ。 「北から何か攻めてくるってか?」 「そうらしい」 「ふうん、カナダがアメリカと戦争を始めるのかな」  いくら何でも、ありそうにもないことだった。それぐらいなら、日本が第二次大戦の復讐戦をアメリカにいどむことのほうがありそうに思える。水池が操縦室からもどってそういうと、半死人みたいな状態にあった幹事長が頬をひきつらせた。 「よた[#「よた」に傍点]を飛ばすのもほどほどにしろ。日本がアメリカと戦ったりするか」 「何でだよ」  竜堂終が、あざわらった。 「あんたたちは、この前の戦争でアメリカと戦ったことを、悪かったなんて思ってないんだろ。いつか復讐してやるぞ、と決心してんだろ。だからこそ文部省は、教科書から、『日本が戦争をおこして悪かった』というような記述を消すよう強制してるんじゃないのかい」  日本国の文部省の初等中等教育局といえば、右翼思想派の巣窟《そうくつ》といってよい。特定企業から賄賂《わいろ》を受けとり、責任を妻や秘書に押しつけるような手合《てあい》が、「日の丸と君が代を神聖なものとしてあつかえ。でないと処罰するぞ」と、学校を脅迫するのである。歴史の教科書に東郷平八郎という海軍軍人を登場させるよう義務づけたのも彼らだ。当時の文部大臣でさえ、その時代錯誤にあきれ、「ひとつの局地戦の司令官で戦争全体は語れない。戦争を開始し、終結したときの日本政府の対応と、その後の社会を教えることで、正しい歴史観が身につく」といって反対した。だが、大臣の反対意見さえ無視して、文部官僚は、復古教育を強引に推進しつつある。「ただ一度戦争に負けたからといって、民族の誇りを失うな。われわれは世界一優秀な民族だ。その自覚をもって祖国に献身せよ」。これは、かつてアドルフ・ヒットラーという男がもっとも好んだ台詞《せりふ》であった。  家を出るとき始兄さんがいったとおりだ。日本はどこへ行くのだろう、と、終の声を聴きながら続は思うが、いまのところ、日本を出た彼らがどこへ行くかが問題であつた。  パイロットに、だいたいの指示は与えてある。大圏コースをとって北アメリカ大陸へ。だがそれからどうなるか。兄とのふたしかな交信のままに、とりあえずは飛びつづけなくてはならないが。 「まだついてきやがる。何のつもりだろう」  毒づいた終が、窓ガラスにくっつけていた顔をふいに離した。何かが彼に警告を与えたのだ。鋭く、すばやく、何か考える表情になると、席から離れる。「トイレ」と一言いいのこして、みんなの前から消えた。  その直後だった。輸送機の天井が割れて、そこから完全武装の自衛隊員がいっせいに飛びおりてきたのだ。 「動くな、テロリストども! 手をあげろ!」  いささか矛盾する命令を発したのは、陸上自衛隊が誇る習志野のレインジャー部隊の隊員だった。七人の手に七丁の拳銃。二重になった天井の裏にひそんで、機会をうかがっていた彼らこそ、内閣官房長官が期待を寄せていた対テロ特殊部隊の面々だった。       ㈽  一挙に、形勢は逆転したかに見えた。 「首相閣下、幹事長閣下、ご無事で」  その声が耳にとどいたとき、三秒ほどの間に、首相の表情は四段階を移行した。死者から半死者に、そして生者に、さらに、とびきり元気のいい生者に。 「おお、おお、よく来てくれた。さすが忠勇無双の帝国軍人だ。かならず来てくれるものと信じとったよ。勲三等をやるぞ。それとも二階級特進がいいかな」  狂喜した首相は、もどかしげにベルトをはずした。ばんざいしつつとびあがったが、着地すると、復讐心に燃える目を一同にすえた。小人《しょうじん》のつねで、状況が変化すると、態度も一変するのである。 「こ、この非国民ども、よくもわしらのような日本一の偉人をないがしろにあつかいおったな。みんな死刑にしてやるからおぼえとれ。お前も、お前も、お前も、お前もだあ。一本のローブに、まとめてぶらさげてやるぞ!」  思いきり伸びあがって、まず虹川の頬に平手打をたたきつけた。つづいて蜃海をなぐる。水池の前に立ったとき、「こいつの首根っこをおさえろ」とレインジャーに命令したのは、短いつきあいで水池の性格を見ぬいたらしい。ふたりがかりで、水池は首すじをおさえつけられた。かわすこともできなくなり、復讐の一撃を受けようとしたとき。 「そのていどにしときなよ」  落ち着きはらった少年の声がしたと思うと、あっというまに首相の華麗な復讐劇は終わりをつげてしまった。トイレにひそんでいた終が、タイミングをはかって飛び出したのだ。  ただ一本のロープが、カメレオンの舌にも似た速さと柔軟さで宙を躍った。四人のレインジャーが、一撃で倒されていた。苦痛の叫びをあげ、顔を、胸を、手首をおさえる。彼らのひとりが落とした拳銃をすばやくひろいあげると、虹川が、凍結した首相にむかって皮肉っぽい笑顔をむけた。 「ロープはどうやらこちらに味方したようですな、首相」  四人のレインジャーが床に倒れたとき、すでに続の優美な身体が宙に飛んでいた。左右の足で、水池をおさえつけていたレインジャーふたりの顔面にキックをぶちこむ。むろん充分に手かげんしていたが、ふたりの被害者にとって何のなぐさめにもならなかった。鼻血と、折れた前歯とをまきちらし、独楽《こま》のように回転して吹っとぶ。  七人めのレインジャーは探縦室に駆けこんだ。なかからドアを閉めようとしたが、続に追いすがられる。反射的に拳銃を続にむける。その手首を続がひねりあげたとき、レインジャーは苦痛の叫びをあげ、引金をひいてしまった。銃口から火箭《かせん》がほとばしり、計器盤を破壊した。  銃弾をあびた計器類は、青い火花を散乱させ、死に蹴した悲鳴をほとばしらせた。銃をもぎとるなり、続は、レインジャーを蹴飛ばした。レインジャーは操縦室のドアにたたきつけられ、低くうめいて床にくずれ落ちる。 「けがは!?」  続が叫んだのは、人道的な理由と現実的な理由からであった。パイロットに負傷されては困るのである。彼らは無事だった。無事でなかったのは、ハードウェアのほうである。火花と異音がたてつづけに発生し、緊急事態《エマージェンシー》を告げる赤ランプが激しく点滅しはじめた。  操縦室の異変を知った虹川が、緊張と困惑にはさみうちされつつも、冗談まじりの口をたたいた。 「水池、お前、操縦できんのか。こういうときには、自衛隊員がかっこよく操縦して、みんなの危機を救うもんだぞ」 「そうつごうよくストーりーが展開するか」  水池はうなった。 「ちくしょう、戦車や装甲車なら何とかなるんだがな」 「空飛ぶ戦車だと思え。そう思えば何とかなるだろう」 「いつから精神万能主義者になったんだ、お前は!?」  やりあう間にも、輸送機はしだいに高度をさげていき、機体が左右に揺れはじめた。七人のアマチュア・テロリスト、ふたりの人質、ふたりのパイロット、七人のレインジャー、そして一匹の犬を乗せて、機体は空中の巨大な見えざる坂をすべり落ちていく。  竜堂家の三兄弟は、視線と会話を、すばやくかわしあった。 「おれたちは、たぶん。落っこちても平気なはずだけど、この人たちはみんな死んじゃうぜ」 「茉理ちゃん、パラシュート使えるかな」 「使えるわけないだろ。おれたちみんな、テロのアマチュアなんだぜ」  パラシュートが使えるのは、水池をふくめて自衛隊関係者だけである。 「まあ、あの人たちも、みすみす死なせるのは、かわいそうですね」  失神した七人のレインジャーと、失神寸前の人質ふたりを見やって、続は肩をすくめた。 「終君、余君、助かる方法がひとつだけあります。選択の余地がないから、それをやることにしましょう」  さすがに心配げに窓の外を見ていた茉理が、はじかれたように近づいてきた。 「続さん、何をする気?」 「わかるでしょ、茉理ちゃん」  従妹の額を、続はかるく指先でつついた。 「ぼくたちは始兄さんに追いついて、それに、茉理ちゃん、君を兄さんに会わせなきゃならないんですよ。とすれば他に方法なし。君の頼もしい従兄《いとこ》にまかせなさい」 「待ってよ、わたし何とかパラシュート使ってみるわ」 「そんなものよりこちらが確実です」  続は降下用の出口に足をむけた。 「おい、待てよ、どうするつもりだ」  虹川、蜃海、水池が同時に声をあげた。 「まさか飛びおりる気じゃないだろうな。正気のさたじゃないぜ」 「あなたの想像の範囲内で残念ですが、そのとおりですよ」 「待てよ、パラシュートの使いかたを教えてやる。まにあわんかもしれんが……」 「説明している暇はありません。どいていてください」  かるく続は水池を押しのけた。長身の水池が、まるで幼児のように軽々と押しのけられてしまう。あっけにとられている水池に、続は扉のあけかたを問い、指示どおりにスライドさせた。気圧が急変化し、ごうっと風が巻いて機内の備品類を舞いあげる。小さな身体の松永君が吸い出されそうになって悲鳴をあげるのを、茉理が抱きとめた。  ところで、世の中には、こういうタイプの人がいる。責任感や使命感が過剰で、自分がやらねば誰がやる、と思いこみ、他人のやることに口を出し、手も出し、結果として事態を悪化させるというタイプだ。国家にもときどきあるタイプだが、それはともかく、終に集団KOをくらったレインジャーのひとりが、このタイプだった。彼は浅い失神からさめて、顔に吹きつける強風の存在を知った。降下扉があいて、そこにテロリストの若者が背中を見せて立っているのを見たとき、彼の責任感と使命感がショートした。 「逃がさんぞ、テロリスト!」  どなると同時に、はね起き、飛びついた。続は飛びおりることに集中していたから完全に虚をつかれた。他の誰も、のびてしまったはずのレインジャーに注意を向けていなかった。いくつかの動作と叫びが、凝縮された数秒の間に連鎖した。続がよろめいて扉の外に飛び出しかけたとき、終と余が、兄のじゃまをするレインジャーにむかって飛びついた。半瞬のもみあい。レインジャーがなぐり倒される。機体が大きくゆれた。竜堂家の次男、三男、末っ子は、もんどりうって空中に放り出されていた。       ㈿  輸送機が薄い煙を噴きつつ高度をさげていく。その光景に仰天したのは、戦闘機のパイロットたちであった。彼らは囮《おとり》となって機内のテロリストたちの注意をひき、その隙にレインジャーに機内を制圧させる。そういう手はずであったのに、輸送機は失速し、酔漢《よっぱらい》のようによろめきつつ、太平洋の海面へと下降していくのである。機内で何がおこったのか。 「あっ、人が落ちたぞ!」  悲鳴が通信回路を走った。人影が輸送機から落ちていく姿が、小石のように見える。ひとりだけでなく、三人ほどがもつれあって落ちていくようであった。 「いまの高度は!?」 「四二〇〇メートル……だめだ、とうてい助からん」  落ちたのは首相ではないか。パイロットたちの胆が冷えた。逆上したテロリストたちに、突き落とされたのではないか。首相個人に対して愛情など持ってはいないが、任務を果たしそこねたにはちがいなかった。人影は雲の海に沈みこんだ。やがて海面にたたきつけられ、トラックにひかれた人形のような姿となるだろう。  だが、一分たらず後のことである。 「おい、雲の中から何か上ってくる」  通信波自体がうわずっているようだ。 「す、すごいスピードで上昇してくるぞ。ひとつだけじゃない……三つだ、とほうもなくでかいそ!」  すさまじい衝撃音を発して、戦闘機の一機が砕けた。雲中から急上昇してきた物体と衝突したのだ。日光に破片をきらめかせながら、戦闘機が四散した後、雲の海に長大な首をもたげた生物の姿があった。バイロットたちは、これ以上大きくはならないほどに目をむいた。 「りゅ、竜……竜が……!」  きちんと主語と述語を持つ言葉にはならない。恐怖と驚愕とに神経を乱打され、攻撃も報告も忘れてただ見守るばかりだった。空中に躍る三頭の巨竜を。一頭は深紅《しんく》、一頭は白銀《はくぎん》、一頭は黒曜《こくよう》。それぞれの色が太陽の直射光をあびて、宝石の長大なつらなりのように見える。その神話的な光景は、雲の海に腹部を接して沈みこもうとする輸送機の窓からもはっきりと見えた。 「ひ、ひええええええっえええええええ」  長い長い悲鳴は、途中で二度ほど音程を変えた。黒目が瞼《まぶた》の裏に隠れ、首相は安らかに気絶した。それに先だって、幹事長は、無意識の世界へ逃避してしまっていた。逃避しそこねた者たちは、唾をのみこむ音をたてながら立ちつくした。水池が虹川と蜃海にささやきかけた。 「おい、見えるか、ご両人」 「ああ……」 「空酔いや船酔いで竜の幻影を見たってのは、おれたちがはじめてかな。前例があったら知りたいもんだ」  それには答えず、蜃海が、松永君を抱いたままの茉理に、かすれ声の質問を発した。 「つまり、こういうことだったのか、鳥羽君」 「ええ、こういうことです」  抽象的な会話だったが、それで完全に意思は通じた。虹川、蜃海、水池の三人とも、これまで日本で生じたかずかずの事件の真相をさとったのだった。茉理自身、これまで意識の隅に押しこんできた夾雑《きょうざつ》物が、日光をあびた霜のように溶け去るのを感じている。始はいったではないか、「おれたちは竜になるんだ」と。そう、それは比揄などではなく、事実であり真実であったのだった。  空中を近づいてきた紅竜が、長大な身体を輸送機に巻きつけた。機体がきしみ、円形の窓外を深紅の鱗がすべっていくのが見える。茉理の腕のなかで、松永君が緊張の鳴声をあげた。虹川が、声をおさえようと努力しながら誰にともなく尋ねる。 「この輸送機をこわす気かな?」 「いえ、ちがいます。この飛行機を守ってくれようとしてるんです。墜落するのをとめてくれているんです」  茉理は断言した。願望と確信と認識とが、徴妙にもつれあってはいたが、この竜が竜堂兄弟の変化した姿であったら、あるいはその逆に、これが真の姿であったとしても、彼らが茉理に危害を加えるはずはなかった。万が一にも危害を加えられたとしても、怨む気は茉理にはなかった。  自分が竜堂家の兄弟たちとともにあることは、たいそう自然で、しかも正しいことのように思われた。茉理は竜堂兄弟の従姉妹《いとこ》だったが、ただそれだけではなくて、どこか深い悠久の関係で結ばれているような気がしている。そう思いこみたいだけなのだろうか? たしかなことは、自分にとって正しいことは彼らとともにあること、そう信じていられるということだった。「始さん」はやはり竜になって弟たちと茉理を待っていてくれるにちがいない。  いま三頭の巨竜は並んで天空を飛翔している。白竜が先陣を切り、輸送機をかかえこんだ紅竜がそれにつづき、黒竜がわずかに遅れて後方をかためる。彼らの直下には、広く厚く雲の海がひろがり、竜たちは夏の程を泳ぎわたっていくかに見える。  円形の窓に顔を寄せた蜃海が、あごをなでて残念そうな表情をつくった。 「禁煙するんじゃなかったなあ、こういうとぎは煙草《たばこ》をくわえて、紫煙とともに何かキザな台詞《せりふ》を吐き出すのが相場なんだが」 「お前さん、カメラを持ってこなかったのを後悔してるんじゃないか。貪欲なジャーナリストのはしくれだからな」  虹川がからかうと、蜃海は苦笑した。返答を避けたところを見ると、言いあてられたのかもしれない。虹川は深追いしなかった。 「ところで、蜃海さんよ、お前さんがいつか言ったことがあったな、おれたちの姓について。虹も蜃も竜の手下だと」 「ああ」 「あのとき口にしたことに、まだお前さん、ひっかかるものを感じてるかね」  すぐには蜃海は返答せず、先日知りあったばかりの、奇妙な同志を見やって、メモ帳とペンをとりだした。 「水池さんよ、お前さんのもともとの姓は、こう書くんじゃないかね」  メモ帳に書かれた「蛟」という字を見て、脱走自衛官は、あっさりと顔を上下に振った。 「江戸時代の末まではそう書いてたらしいがね」 「ふむ……」  蛟《みずち》は、やはり竜族の一種である。虹川が童顔をかるくしかめた。 「すると何千年かの関係、前世からの縁、てな具合《ぐあい》になるのかい。ちょっとばかし神がかってきたぜ、こいつは」 「悪魔がかってきた、といったほうが正確じゃないか」  辛辣に、蜃海が訂正した。水池がむしろ愉快そうに笑った。虹川は何かいいたそうな表情をしたが、苦笑に近い表情で手を振ってみせた。 「ま、いいさ、悪魔が何やらたくらんでも、おめおめとしてやられる顔ぶれじゃなさそうだ。こうなれば毒のついでに皿も全部食ってやるさ」  そこでふと思いついたように碗を組む。 「それにしても、この紅《あか》い竜は、飛びながら何を考えてるんだろう」 [#天野版挿絵 ] [#天野版挿絵 ]  頼もしいのか、あきれるべきか、にわかに判断のつかない先輩たちを見ながら、鳥羽茉理は、ひざにのった松永君の頭をなでている。無言だった。何もいう必要はなさそうに思えた。自分はいるべき場所にいて、いるべき仲間が周囲にいる、と感じていた。 「百パーセントの自信があったわけじゃないんですよ。でも他に方法はなかったから、しかたなかったんです。こわかったけど、ためらう暇もありませんでしたし」  後に長兄と再会したとき、続はそう語った。その表情を見て、長兄は、こいつほんとうにこわかったのかな、と思ったものである。  左に終、右に余をかかえこむような姿勢で、続は落下していったのだ。雲の海のなかは、要するに巨大なシャワー室だった。無数の水滴につつまれて、呼吸は困難だし、濡れた皮膚から体内へ寒気が浸透してくる。雲、つまり数兆の水滴の大群は、不安定な波となって、自由落下状態にはいった三人の身体を翻弄した。 「スカイ・ダイビングって、晴れた日にやるもんだよな!」  終の声を聴いたように思うが、はっきりしない。突然、雲の海をぬけると、ほんものの海がはるか下方にひろがった。そして、続の体内で何かが音もなく爆発したのだ。  そして続は、竜と化した自分自身と弟たちの姿を見たのだった。驚喜は二重三重のものであった。意識がある。どこか自分でももどかしい、寝ぼけていることを自覚しているような違和感は、たしかに禁じえなかった。だが、数日前に新宿新都心を火の海と化せしめたときのような記憶の断絶はなかった。二度めの変身だったからだろうか。それとも、弟たちといっしょだったからだろうか。即答はえられなかったが、ともあれ、ありがたいことであった。  そして、竜と化した後、長兄からの呼びかけは、人間の皮をかぶっていたときよりも、はるかに強く、はるかに確実に、続の心に伝達されてきた。彼と弟たちは、兄に遅れること一時間ほどで、大圏コースをとって、北アメリカ大陸東岸へとむかっている。それは民間航空路と離れ、アメリカとソビエトの軍事空域がかさなりあう危険な宙域であったため、民間機に出会うことはなかった。もっとも、最新鋭の戦闘機をことごとくたたき落とされた極東ソビエト軍にとって、危険なのはドラゴンたちのほうであったにちがいない。 「もう手を出すな、いっさい手を出すな」  極東ソビエト軍には、厳重な命令が下されていた。モスクワからの指示でもあった。 「手を出さねば、ドラゴンのほうから攻撃をしかけてくることはありえん。手を出すな。黙って領空を通過させるのだ」  一刻も早く領空外へ出してしまえ、ということである。ソビエトの領空を出れば、アラスカの空だ。あとはアメリカ軍にまかせておけばいい。アメリカ軍が三頭のドラゴンに攻撃をかけるのは、彼らの自由だ。双方が共倒れになってくれれば、ソビエト・ロシアとロシア的共産主義のために、まことにめでたいというものであった。ドラゴンにちょっかいを出し、その逆鱗《げきりん》に触れた者たちが、モスクワではなくワシシトンDCに居住していることを、極東ソビエト軍の幹部たちは、しみじみと、唯物神に感謝したのである。  こうして三頭の巨大な竜は、オホーツク海からシベリア東北部へ、さらにべーリング海峡へと、国境のない地球の空を飛翔していった。  ただ一頭、先行する青竜のあとを追って。 [#改ページ] 第九章 ドラゴン・アタック       ㈵  ワシントンDC、午前二時三〇分。政治を産業とする特殊なこの都会は、夜の闇と、表面的な静寂と、そして、無音の雷鳴に満たされていた。 「避難命令を出すって? どういう理由でだ。神話のドラゴンが攻めてくる、と、そう市民に告げるのかね」  そういってホワイトハウスからの指示を笑いとばしたワシントンDCの市長は、黒人の民主党員だった。ここ二〇年ほど、ずっと黒人の民主党員が、首都の最高行政官をつとめている。現在の市長は有能な行政官であるというより、弁のたつ議会人だった。彼はフォレスター大統領がきらいで、大統領も彼をきらっていた。市長の返答を聞くと、大統領は闘犬のようなうなり声をもらした。 「よし、明日の昼までには奴に責任をとらせてやる。だが、その前にドラゴンの侵入を何としても阻止《そし》するのだ」  大統領は、これまでさんざん神経を痛めつけられてはいたが、まだ完全に戦意喪失してはいなかった。  すでにこのとき、北極海上空二万メートルで、四〇機の戦闘機とドラゴンの空中戦が展開されていたのである。  四〇機のF18E戦闘機。それを製造する経費で、第三世界の一〇〇〇万人の乳幼児を餓死と病死から救うことができる。三門の三二ミリ・バルカン砲をそなえ、さらに対空ミサイルを保有する。バイロットも、きわだった技倆《ぎりょう》を持つ空軍のエリートたちだった。  音速の三・三倍に達するスピードで、彼らはドラゴンに襲いかかった。ソビエト空軍が手も足も出なかったドラゴンを殺すことは、「アメリカ・アズ・ナンバーワン」の証明であった。  バルカン砲が火箭《かせん》を吐く。一分間に六六〇発の連射能力があるのだ。八機ずつ五編隊にわかれ、一撃離脱の強襲フォーメーションを実行した。一秒間に八八発の三二ミリ機関砲弾が、ドラゴンめがけて撃ちこまれた。熱帯草原《サバンナ》を闊歩《かっぽ》するアフリカ象が、一〇〇万頭もまとめて撃ち殺されるほどの量であった。「覇王《ダイナスト》」の原子炉に砲弾が撃ちこまれて核爆発を生じてもかまわぬ、という命令であった。だが、あわい虹色にかがやく球形が、ドラゴンと「覇王《ダイナスト》」と一億トンの海水をつつみこみ、すべての砲弾はその球形の表面で消滅していく。狼狽したF18群は、対空ミサイルを撃ち放った。だが同じことであった。  八〇本のミサイルは、ドラゴンが張りめぐらした高重力の生体バリヤーに引っかかり、一瞬の半分にも満たぬ時間で、押しつぶされてしまったのだ。  驚愕のなかで反転しようとしたF18の数機が、それに失敗した。彼らは重力の透明な魔手にとらえられ、にぎりつぶされた。ほとんど音もなく、彼らは四散した。引きちぎられ、すりつぶされ、金属と非金属の粉の群となって消滅する。目撃した戦友たちは、ショックで声帯を麻痺《まひ》させた。判断力停止のまま、つぎつぎとF18の群は重力バリヤーにむかって突入し、四散し、粉と化して宙に消えていく。むなしく愚かしい浪費が三回もくりかえされた末、生き残ったパイロットたちはようやく正常な解決法を見出した。彼らは逃げた。人間のつくったものであれば何でも破壊しうるはずの機体を駆って、とうてい自分たちの手に負えない巨大な神獣の前から逃げ出したのだった。  こうして、ブルー・ドラゴンは、無重力の紐《ひも》で「覇王《ダイナスト》」をひいたまま、北アメリカ大陸上空に侵入したのである。  南下のスピードは、きわめて速く、たちまちドラゴンはカナダ上空を縦断して合衆国本土《ステーツ》に達した。この間、カナダ国防軍の航空部隊も出撃したが、飛翔するドラゴンの姿に圧倒されて、手も足も出ず、呆然として見送るだけであった。ドラゴンも、カナダ軍機を完全に無視して悠々と南下をつづけた。そしてアメリ力上空に達すると、ワシントンDCを直撃するかと思われたのだが、わずかに進路を変じてバージニア州西北部に到った。  そこにはアパラチア山脈の地下深くに建設された要塞都市があった。全面核戦争にそなえて、合衆国の戦争最高指揮機能を保全する目的でつくられたのである。その真上に達したとき、ブルー・ドラゴンは予想外のことをおこなった。遮断《しゃだん》されていた重力の一部を解放し、一億トンの海水と、「覇王《ダイナスト》」を除く艦艇を地上に落下させたのだ。  アメリカ合衆国の善良で平凡な市民たちーメジャー・リーグへの昇格を夢みて昼も夜も練習をつづけるプエルトリコ系のマイナー・リーグの野球選手。寒波におそわれたモンタナ州の牧場で、羊の凍死をふせぐために努力をかさねる牧場主。イエローストーンの国立公園で子供たちに自然との共存について教える管理官。自分の店を持つために一日一五時間、夫婦で働いているベトナムからの難民。翌日のはじめてのデートに興奮してベッドで寝返りばかりうっている中学生。先祖からの伝承を記録して歩くネイチャー・ピープル(いわゆるインディアン)の学者。車椅子をおして一日に五〇キロも病院の廊下を歩く看護婦……。  そういったアメリカ市民たちが、熱風と放射能のためにことごとく死に絶えた後も、大統領以下四〇〇〇人の男女だけが、この地下都市で安全に生き残る。ここにはプールも映画館もアスレチック・ジムもテニスコートもそろっており、一年間にわたって、空気浄化装置がフル稼動し、地下天国で不自由ない生活を送ることができる。選ばれた、ごく一部の人間だけが。 「死者が出るから戦争は悪だ、という考えは幼稚で感傷的なものだ。生命より貴重な正義と国家の威信というものが、この世には存在するのだ」  そういうことを主張する人間が、最前線で戦死した例は、アメリカでもソビエトでも日本でも、けっしてなかった。ベトナムのジャングルで、蚊に刺され、蛇に噛《か》まれ、死の恐怖をまぎらわせるために服用した麻薬のために心身ともぼろぼろになり、血と汗と泥にまみれて死んでいったのは、無名の兵士たちであり、大統領でも国防長官でもなかった。一九八九年にアメリカ合衆国の副大統領に就任した人物は、父親の地位と権力を利用して徴兵のがれをやり、ベトナム行きをまぬがれた。  つまり、人の世に、「権力者の生命の価値をしのぐほどの正義」は存在しないのであろう。「生命より正義がだいじだ」と権力者がいうとき、生命とは「他人の生命」であって、自分や家族の生命ではない。このことは、誰でもおぼえておいたほうがいい。  このような書きかたをすると、「世の中はそれほど単純なものではない」という言いかたで反論してくる人がいるものだが、複雑な議論というものは、単純な疑問を解決してからおこなうものだ。世のなかに、生命よりたいせつなものはたしかにあるかもしれないが、それはひとりひとり異なる。権力者の美辞麗句にだまされないほうがいいだろう。むろん世の中には、「だまされたいの、だましてエ」という趣味の人もいるだろうから、そういう人は勝手にすればいい。ただし、破滅するのは自分だけにして、「だまされないぞ」と思っている人をけっして巻きこまないことだ。  一億トンの海水は、重力制御をとかれ、豪雨となって地下要塞都市を襲った。地上の吸排気設備が瞬時にして水没し、そこからエア・ダクトを通って、塩からい太平洋の水がアパラチアの地下に流れこんだのだ。地下天国は激しい洪水に襲われ、施設と食糧、それに要員を水びたしにした。映画館もプールも、ビリヤード室も、きれいさっぱり海水に洗われてしまったのである。  フォレスター大統領は、最後の避難場所を失った。その旨、報告を受けた大統預は、どうにか残っていた憤怒のエネルギーを一点に集中させ、ドラゴンの射殺を命じた。  かろうじて水没をまぬがれた周辺基地は、ありったけの戦車を動員して、神も大統領も恐れぬ不逞《ふてい》な怪獣を射殺しようとはかった。対空ミサイルと、そして昼夜兼用の対空機関砲。これが彼らの主要武器である。ことに、コンピューター連動式の三七ミリ対空機関砲は、五〇〇〇メートル上空をマッハ一・六で飛行する物体すら撃墜可能である。  雲かと思われるほどの弾幕が張られた。ブルー・ドラゴンの巨体に、数千の機関砲弾が着弾する。サファイア色の鱗《うろこ》は着弾の火花を発してさらに青くかがやきわたった。地上の砲声は鼓膜を破るかと思われた。だが、空母は重力バリヤーに守られて安全であり、ドラゴンは無傷だった。撃たせるだけ撃たせておいて、ドラゴンは重力バリヤーの一部を槍のように地上へ伸ばした。  またたくまに勝敗は決した。二〇〇両の戦車が、ほとんど一瞬にして成層圏近くまで舞いあげられてしまったのである。大量の土砂もそれにともなった。地表には、広大な、一小都市にも匹敵する穴がうがたれた。音もなく、光も熱もなく、ことは終わってしまったのである。 「だ、だめです、あんな怪物、どうやって対抗したらいいんですか。奴は重力を自由にあやつれるんですよ!」  報告する声は狂乱寸前であった。 「チューリヒを呼べ、チューリヒを!」  フォレスター大統預はわめいた。一九〇センチにとどこうというたくましい長身が、恐怖と自信喪失とで、熱病患者のように慄《ふる》えていた。彼は伝統的な「|権力と武力《パワー》」の信奉者であって、だからこそ、ホワイトハウスの借家人となることが、彼の人生の目標であったわけである。その地位が、「四人姉妹《フォー・シスターズ》」の下僕であるにすぎない、とわかってからも、力への信仰はゆるがなかった。だが、その力それ自体がゆらぎ、くずれ落ちそうになっていた。「うろたえおって」と、ヴィンセントは心のなかで吐きすてた。  とはいえ、ヴィンセントも、とうに泰然自若としていられる精神状態ではなくなっている。彼はただちにチューリヒに直通国際電話をかけ、大西洋決済銀行《ASAB》の奥の院を呼び出した。彼自身も、指示と、そして何よりも安心がほしかったのだ。だが大西洋をこえた呼出《コール》音は五〇回をかぞえて、ついに、電話口に出る者をつかまえることができなかった。       ㈼  二時五〇分。ついにブルー・ドラゴンはワシントンDCの上空にその姿をあらわした。  深夜でなければ、青くかがやく巨竜の姿は、アメリカ東海岸メガロポリスの数千万の住民によって空中に目撃されたにちがいない。だが夜の闇が、多くの人々を、神話的な驚愕から救った。ブルー・ドラゴンが上空を通過したメリーランド州ボルチモア市の住宅地では、マイケル・F・パターソンという六歳の坊やが屋根裏の窓から夜空をながめ、「大きなドラゴンが大きな船といっしょに空を飛んでいった」と、正確きわまる報告を両親にしたが、ババもママも坊やが寝ぼけたものと思いこみ、叱りつけて、自分たちのベッドに押しこめ、寝かしつけたのであった。  ブルー・ドラゴンが原子力空母をワシントンDCに投げ落とし、キノコ雲を立てるのではないか。その恐怖が、ごく少数のめざめていた人々を凍りつかせたが、空母は音もなくゆっくりと宙から降りてきた。アメリ力の中心、ワシントンDCのさらに中心、ホワイトハウスの庭に。  世界最強の空母「覇王《ダイナスト》」は、こうして、七〇万平方メートルをこすホワイトハウスの敷地内に「着陸」したのであった。九万一九〇〇トンの巨体は、やわらかな芝土にめりこみ、遼くで発生した地震のようにワシントンDCの地面をわずかに震動させた。ただそれだけであった。それ以上の被害を、ワシントンDCはまぬがれたのである。 「……永久に保存しておくがいい。お前たちの愚劣さを、すべての時空間の住民に知らせるための記念碑として」  いささかお説教がましい、といって否定するには重すぎるその声は、天空からとどろいたという者もいれば、頭のなかにひびいたと主張する者もいる。いずれにせよ、その声を聴いた人は、多くはなかった。  より多かったのは、ホワイトハウスの上空にあって、青く燃える双瞳《そうぼう》でワシントンDCの市街を見おろしているブルー・ドラゴンの姿を見た者だった。  ホワイトハウスには、重武装テロリストのカミカゼ攻撃にそなえて、いくつかの対空火器がそなえられているが、大統領からの命令もなく、沈黙をつづけていた。撃っても効果があるとは思えぬ。また、かりに効果があったとしたら、全長一〇〇メートルをこす巨大なドラゴンは、ホワイトハウスの真上に落ちてくるのだ。そしてホワイトハウスの広大な芝生は、いまや空母「覇王《ダイナスト》」の展示場となっており、その胎内には原子炉がかかえこまれているのだった。撃てるものではなかった。  恐怖と戦慄の幣《たが》が、ふいにはずれた。夜空で巨体をうねらせたブルー・ドラゴンが、飛びはじめたのだ。竜の旅はわずか数秒で終わって、竜の玉座はホワイトハウス上からポトマック河の右岸に移動した。そしてそれが、アメリカ東部一帯を震憾《しんかん》させるドラゴン・アタックの開始であった。 「国防総省《ペンタゴン》がいまドラゴンにたたきつぶされた。たった一瞬で、跡形もなくなってしまった。神よ……」 「ラングレーの中央情報局本部《CIA》が炎上中!」  兇報はあいついでもたらされた。ドラゴンは、盲目的な憎悪と破壊本能に駆られて動きまわっているのではなかった。ドラゴンが破壊しているのは、フォレスター大統領が信奉しているパワーの中枢であった。どのように超常的な能力をめぐらせたのであろう、ブルー・ドラゴンは、アメリカの世界支配の拠点を、つぎつぎと選択して破壊しているのだ。それとさとったとき、フォレスターは絶叫せざるをえなかった。 「ドラゴンは、なぜモスクワを破壊しないのだ!」 「モスクワなど地方的勢力の中心でしかないことを、ドラゴンは知っているのですよ」  ヴィンセントが唇ごと、あごをゆがめてみせた。 「われわれこそが地上で最強の支配者だということを、ドラゴンは知っているのです。正当な評価を受けたものだ、と、感謝すべきでしょうな」  そのころ、メイン州北西部にある対空電子警戒基地のひとつでは、またしても北方空域から侵入する未確認飛行物体の姿を発見していた。それが紅と白と黒のドラゴンであると判明したとき、彼らは恐施をつきぬけてしまった。 「もうたくさんだ、どうにでもしてくれ」  わめいた士官のひとりが、自分の頭からヘッドホンをもぎとって床にたたきつけた。周囲の誰も彼のヒステリーを制しなかった。 「ブルーにレッド、ホワイトにブラックか。ふん、こうなったらグリーン・ドラゴンでもパープル・ドラゴンでも、いくらでも出てくるがいい。出て来やがれというんだ!」  むろん彼は、東洋の竜の伝説に無知な人間であったから、「四海竜王」や五行思想のことなど知らない。クレヨンの色の数ほどにドラゴンが存在すると思ったのである。事実を知っても、この場合、べつに喜びもしなかったであろう。四頭のドラゴンだけで、全アメリカ軍を狂乱におとしいれるには充分であったからだ。  最初の兆候《ちようこう》は雨であった。メイン州の上空に黒く低く雨雲がたれこめ、夜とあいまって、空と地上は暗黒につつまれた。これはブラック・ドラゴンが飛行高度をいちじるしくさげ、またブルー・ドラゴンの精神波に共鳴して、好戦性を刺激されたからであったかもしれない。豪雨域とドラゴンの急接近を告げられて、ホワイトハウスの借家人は首をひねった。 「雨とドラゴンと、どういう関係があるんだ?」  こういう人もいるから、なるべく、他の文化圏のことも知っておきたいものである。ヴィンセント補佐官は、そもそも東洋において竜は水神の一面を持つことを、簡単に説明してやった。大統領は納得したが、だからといって事態はいっこうに改善されなかった。  三頭の竜は、豪雨域とともにアメリカ東部を縦断しはじめた。彼らがブルー・ドラゴンとの合流をめざしていることは、想像力がティラノサウルスより貧弱な者にとっても、いまや明白であった。しかも、三頭の竜のうち二頭、紅竜と白竜が、進路を時計方向と逆にまわりこませて、ノースカロライナ州上空を通過したのだ。そしてこの二頭が、世界最大の生物化学兵器の研究センターであるバンデンバーグ基地を破壊したのである。  紅竜が飛ばした炎は、白竜が放った強風にあおられ、たちまち一六キロ四方の巨大な基地に充満した。実験棟も、倉庫も、ことごとく炎と煙につつまれ、火によって浄化されていくかに見えた。  地球上の全人類を一六〇〇回にわたって死滅させることができる大量のペスト菌、ボツリヌス菌、炭疽菌、スーパー・ナパーム弾、致死性神経ガス、枯葉剤などが、このドラゴンの攻撃によって、ことごとく灰となったのである。これらの生物化学兵器には、ミサイルに搭載されて、ドラゴンに対して使用されるはずのものもあった。だが先制攻撃によって、すべて消減してしまったのである。これまた、何か常識外の力が働いたとしか思われない。とにかく、この基地が完全破壊されたことによって、アメリカ軍が関東軍細菌部隊から受けついだ細菌戦や毒ガス戦のノウハウは、ほとんど地上から消えてしまった。マッド・ドクター田母沢篤が生きていれば、さぞくやしがったことであろう。  四頭のドラゴンがついに集結したのは、午前三時三〇分、ニューヨークにおいてであった。このとき紅竜は、すでに輸送機をかかえておらず、どこか地上に置いてきたものと思われた。青竜はエンパイア・ステート・ビルに、紅竜はトランプ・タワーに、白竜と黒竜は世界貿易センターのツイン・タワーに、それぞれ陣どって、たがいに長首を伸ばし、再会を喜びあうように見えたのである。それは物質文明と神話世界の奇怪な共存であること、先日の東京・西新宿をしのぐ光景であった。       ㈽  災厄はまだ終わらなかった。というより、はじまったばかりであった。ホワイトハウスの地下では、フォレスター大統領が、精神的に窒息する寸前であった。とんでもない報告がもたらされてきたのである。  ワシントンDCの主要部、ことに国防総省《ペンタゴン》が破壊炎上させられたことで、アメリカ合衆国全軍にわたって、自動的に「報復戦略」が発動されたのであった。  アメリ力国内のネバダ州で。インド洋上のディエゴ・ガルシア島で。フィリピン、ミンドロ島西方海上に浮上した原子力潜水艦上で。時差に関係なく、大陸間弾道ミサイルの発射孔が口を開いた。 「報復戦略、発動命令を受預。確認す。発動命令に誤りなきか?」  発射孔と同数の通信波が合衆国本土《ステーツ》にむけて飛んだ。  だが、すでに、彼らに命令を下すべき国防総省は、返信することができない。返信がないということは、報復戦略の発動を、あらためてうながすものであった。恐怖、逡巡《しゅんじゅん》、覚悟、それぞれの思いが発射ボタンを押す指にこめられた。  三六〇発の大陸間弾道ミサイルが、オレンジ色の炎を吐いて宙空に飛びあがった。東部時間三時三一分三〇秒であった。  目標は、モスクワ、レニングラード、キエフ、チタ、ウラジオストク、ぺトロパブロフスクカムチャツキー、ノポシビルスク、トボリスク、バイコヌール、アルハンゲリスク、ハバロフスク、バクー、ゴーリキー、クイビシェフ、スペルドロフスク、カザン、サラトフ、リガ、タシケントなどソビエト国内の一四〇ヵ所。カムラン湾、ハバナ、平壌《ピョンヤン》、テヘラン、トリポリ、アジスアベバなどソビエト国外の三〇ヵ所。一億人を即死させ、その一〇倍の人数を放射能と食糧不足と酷寒によってじわじわと死なせるに充分な数であった。  すでに核の冬に見舞われたかのような、暗く重い、不毛の沈黙が、ホワイトハウスにたちこめた。 「これはいったいどういうことだ」  フォレスターはわめいた。その質問には、知性も理性も遠慮して顔を出さなかった。 「第三次世界大戦です」  ヴィンセントの声は、砂浜の小石よりも乾いて固い。その単語は、これまで大統預の好きな| P  F 《ポリティカル・フィクション》ドラマにしか登場しないものだった。 「ドラゴンのせいだ。わ、私は知らんぞ。責任はドラゴンにある。ロシア人どもは、ドラゴンに仕返しすべきなんだ」  補佐官は、大統領の悲鳴を無視した。 「わが軍の報復戦略は自動的に発動しました。ソビエト・ロシアにとっても同様です。モスクワにむかって核弾頭が発射されれば、先方の報復戦略も反射的に発動します。こういうシステムをつくったのは、ドラゴンではなくて、われわれ人類です。いたしかたありませんな」  文明批評家に変身したヴィンセントに、フォレスターは、それ以上の相談も質問もしなかった。 「モスクワだ、モスクワを出せ! 熊野郎が寝こんでいたらたたきおこせ!」  今回は、きちんと回線がつながった。ソビエト共産党書記長は、アメリ力大統領よりちょうど一〇歳下だったが、老成した男だった。一〇分後にモスクワを核ミサイルが襲うと知ると、海溝のように深い静寂の後に彼は答えた。 「なるほど、それで?」 「そ、それでではない! これはわれわれの意図的な攻撃ではないのだ。そちらの報復戦略を発動しないでほしいのだ」  書記長は、ため息をついたようであった。 「あいにくと、モスクワを襲おうとしているのは、貴国の核ミサイルであって、ドラゴンではない。何色のドラゴンか知らないが……」  書記長のジョークは、にがい自嘲の鉛色におおわれていた。 「いずれにせよ、貴国のミサイルがわが国に向けられているように、わが国のミサイルは貴国にむけられているのだ。第二次大戦後、ずっとわれわれはそうしてきた。相手を脅し、同盟国をおどして、われわれは他国に力を誇示し、小国をおさえつけてきた。今日の事態は、われわれの傲慢《ごうまん》が招いたことだ」 「書記長閣下の哲学をうけたまわっている暇はない。このままでは北半球は死滅する。どうすればよいかをお尋ねしているのだ」 「どうしようもないでしょう、大統領閣下。あなたたちは鏡にむけて銃を撃った。ひび割れて砕け散るのは、あなたたち自身の像だ」  送話器にむかって、フォレスターはわめいた。 「書記長閣下! あなたほど強力な指導者が、まさか運命論の罠に落ちこんだのではないでしょうな。私ひとりに超大国としての責任を押しつけるつもりですか」 「あなたの幸運を祈ります。あなたの神にね。残念ながら私には神がいないもので……」  では失礼する。英語とロシア語でくりかえして、書記長はホットラインを切ってしまった。ある意味では唯一の友人に見すてられて、フォレスターは一○秒間ほど放心していた。ようやく口にした台詞《せりふ》は、他者の意表をついた。 「……黙示録の四騎士というやつを知っているだろう、ヴィンセント」  いきなり黙示録など持ち出されて、補佐宮はおどろいたが、考えてみればフォレスターが読んだ活字は、教科書と新聞の他は、聖書ぐらいのものであった。ヴィンセントは、黙って大統領のつぎの声を待った。 「見よ、蒼《あお》ざめたる馬ありき、これに騎《の》る者の名を死という。この他に赤い馬、白い馬、黒い馬が出てきたな」  一秒ごとに核ミサイルはモスクワに近づいているのだが、大統領は失念しているようだった。 「青い馬、赤い馬、白い馬、黒い馬……その色はそのままドラゴンたちの色じゃないか。黙示録の時代とは現代のことではないか」 「どの民族や人種の目で見ようと、青は青、赤は赤、普遍的なものですよ。あまり現実に、神話や伝説をからめさせないほうがよろしい」  ようやく答えたヴィンセントはそっけない。 「ハレー彗星が兇事を呼ぶ、という迷信があるでしょう。あんなものが嘘だということは、すぐわかる。年表を見ればね。ハレー彗星が地球から遠く離れているときだって、戦争や災害は起こっている。第二次大戦がまさにそうです。ところで……」  一見よけいな会話で、ヴィンセントはたくみに大統領の関心を現代に引きずりおろした。 「チューリヒから連絡がありました」  それが肝腎《かんじん》の一言だった。フォレスター大統領の顔に、わずかな生色がもどった。彼の飼主たちは、まだ彼を見すてていないようだ。 「ドラゴンが世界を救うかもしれない、と、そういうことです」  フォレスターは、これまでとはやや種類が異なる、混乱と困惑の表情をつくった。 「だが、チューリヒは、いつも言ってきたはずだぞ。ドラゴンは世界を破滅させる悪魔の使徒だ、と。それがどうして世界を救うのだ!?」 「それはもうすぐわかるそうです」  ヴィンセントは、壁にかかった時計を見やり、ついで自分の腕時計に視線を落として宣告した。「あと八分、五〇〇秒たらずで事情が判明するそうです。それとも死による終末ですかな。まあ、それこそすぐにわかりますが」 「ダク……」  大統領の声に汗がにじんでいるようだ。 「報復戦略などというものは、愚劣きわまるものだったかもしれないな。これまで私は、その存在意義を疑ったこともなかったが……」  補佐官は、おどろいたような目つきをした。ややわざとらしさはあったが、いつわりではなかった。 「むろん愚劣ですとも。ですが、大統領は、それをご承知の上で選択なさったものと思っておりましたが」  補佐官は上下の唇を舌でなめまわした。 「力を誇示する虚栄心というものは、愚劣を愚劣と認める理性を圧倒するほどに強いものですからな。その虚栄心を維持しないかぎり、国家というものは存立しえない。大国になればなるほどです。その業《ごう》を、あなたはご存じだと思っておりましたよ」  ヴィンセントの、えせ教師的な饒舌《じょうぜつ》を無視して、フォレスターは、壁画の世界図をにらんだ。北極点を中心としてコンピューターが描きだしたその図には、東西両陣営をあわせて七〇〇をこす大陸間弾道ミサイルの光点が映し出されていた。死神が吹き鳴らすラッパの、それは音符のひとつひとつを意味するのだ。  統合幕僚本部議長のローガン陸軍大将は、ホワイトハウスに逃げこんできてから、すでに一〇〇回以上の電話を外部にかけまくっている。同様にホワイトハウスに駆けこんできたワレンコフ国防長官は、とうに神経回路がスパークしたのであろう。ホワイトハウスのキッチンからジンの瓶を一ダースほども持ち出し、大ロをあけてあなっている。TVドラマの悪役俳優めいた顔は青白んで、ハロウィーンのおばけカボチャめいて見える。 「おしまいだ、もうおしまいだ、おしまいなんだ 国防長官のリフレインも、むりはない。ソビエトの報復戦略が発動したことも確認されていたからである。  ソビエトの核ミサイルの目標は、ワシントンDC、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、ヒューストン、ロス・アラモス、ポストン、ボルチモア、フィラデルフィア、コロラド・スプワングス、アトランタ、サンジエゴ、ホノルル、シアトル、クリーブランド、ダラス、ケープ・カナベラル、アンカレジなどアメリカ国内の一三〇ヵ所。東京、那覇、ロンドン、バナマシティ、ジュッセルドルフなどアメリ力国外の九〇ヵ所であった。 「うぬ、だから第二次大戦後、ロシアが核武装する前に、戦争をしかけて、たたきつぶしておくべきだったのだ。そうすれば、今日の災厄もなかったのだ。平和共存などというたわごとを信じたばかな奴らが、偉大なアメリカを減ぼすのだ!」  ローガン大将が、汗の玉を飛ばしながらわめいた。さっそくヴィンセントが冷然と論議を吹っかける。 「ロシアと戦争して、勝てたと断言できますかな、大将」 「合衆国の三軍は、世界最強だ!」  ローガン大将は咆《ほ》えたてた。ヴィンセントは肩をすくめた。 「わが軍が世界最強だということは認めましょう。だが、その世界が滅びようとしているのです。焼け落ちた家の前で、カーペットのりっぱさを強調して何になるというのですかな」 「では、補佐官は、手をつかねて滅亡を待つとおっしゃるのか!」 「そうは申しません。迎撃ミサイルは、どんどん飛ばしていただこう。せっかく巨額の予算をつぎこんだのだから、何とか役に立てていただきたいものですな」  ヴィンセントがここまで他人の神経を逆なでできるのも、四人姉妹《フォー・シスターズ》の全面的なバックアップがあると信じればこそだった。そして、その信仰が、ヴィンセントの理性を、この極限状況下にささえていたのである。       ㈿  アメリカ東部時間三時三二分。  ニューヨーク、マンハッタンの摩天楼上に幡踞《ばんきょ》していた四頭の巨竜が、夜空へむかって長首を伸ばした。暗い天空の彼方に、不吉な何物かを見出したようであった。数瞬の後、八個の光りかがやく瞳が見かわされた。意思が交換されたようである。先頭を切って、白竜が夜空へ駆けあがった。黒竜がそれにつづいた。さらに紅竜が。そして最後に青竜が長大な姿を伸ばし、悠揚《おうよう》たるようすで天空へと舞いあがっていく。  そのありさまを偶然ひとりの市民が目撃した。半年前に韓国から移住してきたキム氏は、彼が経営する終夜営業の小さな焼肉屋から飛び出し、路地をバトロール中の警官に声をかけた。 「ド、ドラゴン・フライ、ドラゴン・フライ!」  竜が飛んだ、というつもりで、キム氏は叫んだが、アイルランド系の警官には通じなかった。 「|とんぼ《ドラゴンフライ》がどうしたって? お前さんの店じゃドラゴンフライをメニューにだすのか。東洋人の食習慣ってやつにはついていけんなあ」  この警官は、日系人のげてもの料理屋で、イナゴの佃煮を食べさせられことがあったのだ。キム氏は警官の襟を片手で引っぱり、片手で夜空を指さしたが、偉大な真実は、ついに見すごされてしまったのであった。  四頭のドラゴンは高く高く飛翔した。彼らの下方で、ニューヨークは光の海となり、光の湖となり、光の池となり、やがて光の珠《たま》となった。それほど高く飛んだのだ。白竜が先頭をきり、ついに彼らは地上一四〇〇キロの高みに達した。 「人界……!」  その呼称が、ドラゴンたちの記憶巣に再生される。人間どもは「地球」と呼んでいるが、そう、はるかな昔。それとも遠い未来。竜王をふくめた天宮の住人たちは、青緑色にかがやく水と酸素の惑星を「人界」と呼んでいた。この惑星を美しく清らかにたもつのは、人間どもの責任であり、誇り高い使命であるはずだ。それなのに、人間のなかの強大な者どもは、あたかもそれが権利であるように、この惑星を破壊し、汚染してやまない。あるていど森を切り開いて畑をつくり、都市を築いて自由な文化をうみだすのはよい。だが奴らは限度というものを知らぬ。まして、もともと自然に存在せぬ物質によって地球を汚染するとは何ごとであろう。  人界の表面近くを、のろのろと、金属でつくられた醜悪な芋虫《いもむし》が群をなして移動している。マッハ四で飛行する大陸間弾道ミサイルも、竜たちの目には、そのていどのスピードにしか見えなかった。  青竜が長首を振った。それが一族の長からの命令であった。白竜が、黒竜が、そして紅竜が、長大で優美な身体をくねらせた。青竜も動いた。地球を汚染しようとする芋虫の群に襲いかかる。  大気圏に再突入しようとしていた大陸間弾道ミサイルが、たてつづけに消減した。すさまじい高熱の炎が、めくるめく電光が、そして大気圏内ではソニック・ビームが、数百キロの距離を走ってミサイルを破砕する。そして反重力ビームが、近い距離を飛ぶミサイル群をまとめて消滅させる。みるみるうちに毒虫たちの姿は空中から減少していった。  むろん、すべてのミサイルがドラゴンによって消されたわけではない。アメリカ、ソビエト、両国の迎撃ミサイルもフル稼動して、必死に、飛来する大陸間弾道ミサイルを撃ち落とそうとする。だが、命中すれば大気圏外ながら核爆発をひきおこす可能性があるし、はずれれば、ドラゴンはその双方を撃ち墜とさねばならぬ。ドラゴンたちは多忙をきわめ、そのありさまは地下にひそむ人間どもの知るところとなった。 「ドラゴンが大陸間弾道弾を、つぎつぎと撃ち墜としています。信じられません。あっ、またひとつ。また……!」  いくつもの感情に引き裂かれた声が、そう報告してくる。おどろき、喜び、とまどい。自分たち自身どう思い、どう感じてよいかわからぬようであった。それはフォレスター大統領も同様である。これまで彼が知るところでは、ドラゴンは悪の権化であリ、反《アンチ》キリストの象徴であったはずだ。そのドラゴンが、核ミサイルを破壊し。世界を救おうとしているとは。 「完璧に、とはいかんでしょうな。南半球までは、ドラゴンも手がまわりますまい。一、二の洩れはどうしようもないことですな」  こいつはドラゴンに対してまで、考課表をつけるつもりか。うんざりした思いを、補佐官に対していだきつつも、それ以上に、壁の世界図からつぎつぎと消失する核ミサイルの光点に、大統領は心を奪われるのだった。  ヴィンセントの陰気な予言は的中して、インド洋の中央北部、インド亜大陸南端から一五〇〇キロ以上離れたディエゴ・ガルシア島は、ドラゴンの探知網をかいくぐった大陸間弾道ミサイルの直撃をこうむった。そこは「絶海の無人島」と呼ばれるにふさわしい珊瑚礁《さんごしょう》の島で、全島がアメリカ軍のレーダー、軍事衛星制御システム、通信システム、傍受施設などで埋めつくされている。地球上の七つの海にひそむ原子力潜水艦に核ミサイル発射を指示するのもここである。アメリカの世界支配戦略にとって要《かなめ》石ともいうべき存在だ。  当然、迎撃ミサイルもそなえているが、ソビエトの大陸間弾道ミサイルはその間隙をぬって目的地に到達し、炸裂《さくれつ》した。オレンジ色の火球がインド洋を染めあげ、三〇〇キロ離れてそれを見た貨物船の人々は、太陽がふたつ出現したかと疑ったのであった……。 「カムラン湾のソビエト艦隊もキノコ雲の下に吹き飛んだようです。おたがい、有力な軍事拠点に一撃をこうむりましたが、一ヵ所ずつ。痛み分けの恨みっこなしというところで、手打ちができるでしょう。けっこうなことですな。四人姉妹《フォー・シスターズ》からの指示どおりです」  ヴィンセントが、下級悪魔の政治方程式を立ててみせた。大損害をこうむったディエゴ・ガルシア島も、カムラン湾も、純軍事施設であり、基地要員も耐核シェルターに逃げこんでいる。死者がまったく出なかったわけではないが、大都市に核ミサイルが落下した場合の惨状を思えば、このていどの被害は甘受《かんじゅ》すべきだ、というのが、ヴィンセントの考えであった。ワシントンDCもモスクワも、このていどなら忘れたふりをして今後も危険な共存をつづけることができる。何よりも、ディエゴ・ガルシアにせよ、ベトナムのカムラン湾にせよ、アメリカにとってもソビエトにとっても、国内ではない。同盟国も海外領土も、両超大国にとって使いすての盾《たて》でしかなかった。ひとつこわれても惜しいことなどない。  フォレスターが巨体を投げ出すように椅子にすわりこんだ。得々《とくとく》としたようすの補佐官をにらみつけ、唇をゆがめてみせる。 「だが四人姉妹《フォー・シスターズ》は、今回、何もしなかったではないか。それとも、何もできなかったのか。彼らは全能だと私は思ってきたが、そう思いこまされてきた、というだけのことかもしれんな」  ヴィンセントは、せきばらいをひとつしてみせた。 「率直さは大統領閣下の美徳ですな。ですが、あまりご自分の足もとを掘りすぎると、ご自分自身が立っていられなくなるのではありませんか」  四人姉妹《フォー・シスターズ》に大統領にしてもらった自分の立場を忘れるな、というのである。ぎょっとして、フォレスター大統領は口を閉ざした。二〇世紀にはいってから、四人姉妹《フォー・シスターズ》の手で暗殺された大統領、大統領候補のリストを思い浮かべたのであった。狼狽と後悔をたたえた大統領の顔を見やって、ヴィンセント補佐官は、なだめるように笑ってみせた。 「すこしちがった角度から、ごらんになってはどうですか。四人姉妹《フォー・シスターズ》は、ドラゴンをすら利用して世界を破滅から救ったのです。それが今回の結末であリ、人間社会は変わることなく四人姉妹《フォー・シスターズ》のコントロールのもとにあるというごとです」 「……うむ、なるほど、そのとおりかもしれん」  うなずきはしたが、大統領の顔に、心からの納得はなかった。その顔をながめて、ヴィンセントは思った。まあいい、どうせこの男は一期かぎりだ。ドラゴン・アタックの脅威を思い知らされたこの一夜の後始末《あとしまつ》。それがこの男にとって最後の仕事になるだろう、と。 「ドラゴンたちは、どこへ行ったのだろう……」  呆然と誰かがつぶやいたとき、ホワイトハウスは、完全に死の顎《あぎと》から逃がれ出ていた。 [#改ページ] 第十章 水晶宮の夢       ㈵  チューリヒ、午前九時四五分。これはワシントンDCの午前三時四五分にあたる。国際金融と情報の中心地であるこの美しい古風な都市は、すでに活動をたけなわにしている。だが、いきかう自動車がヒステリックにクラクションを鳴らすこともなく、急ブレーキの音もひびかない。落ち着いた静かな活気が街に満ちる。この街は、大声をあげて走りまわるような人間を拒否して成立しているのだ。  大西洋決済銀行《ASAB》五階の奥まった一室。 「世界は平和で美しい。けっこうなごとだ」  大君《タイクーン》のひとりが窓ぎわにたたずんで、つぶやきをもらした。初老の端整な顔に、かるい疲労の残霹《ざんし》が見られる。彼らは肉体的にはごく普通の人間で、昨夜の眠りは浅く短いものであった。大西洋をへだてた新大陸で生じたトラブルが、彼らの正常な眠りを奪ったのである。朝食会はそのまま彼らだけの秘密会議に移行し、コーヒーの香に乗って、世界の運命が室内をただよっていった。 「ヴィンセントからの報告によると、フォレスターめ、逆上しおって、われらの統治能力に疑問を呈《てい》したそうではないか」 「われらに力がないかどうかすぐにわかる。合衆国大統領をホワイトハウスから放り出すていどのことも、できぬかどうか、すぐに思い知るだろうて」  大君たちの声に、ややこわもてするひびきがある。軽視されることに彼らは慣れていなかった。フォレスターごときが、飼い主に対して疑問をいだくとは何ごとであろう。犬は犬らしく、己《おの》れの身分に甘んじていればよいものを。 「正直、多少ひやりとはしたがな。まあ、しかし、やはりあの方の指示どおりだった。ドラゴンに北半球潰滅の危機を救わせるとは、さすがおみごとというしかない」  その台詞《せりふ》は、奥底に、不正直な流れをひめていた。 「崑崙が動き出した……」  その一言を発したときの、「あの方」の動揺を、四人姉妹の大君たちは敏感に察知していた。彼らはフォレスターなど足もとにもおよばぬ、力の信奉者であった。だからこそ、フォレスターにも、それ以前の歴代の大統領たちにも、彼らの力を思い知らせてやってきたのである。脅迫し、なだめすかし、利益の一部を投げ与え、それが通用せぬときには、美しい緑の地球から追放してやった。拳銃やライフルを持った刺客を送りこみ、飛行機を爆破し、特別に調合させた薬物を注射させた。ひとりのユダヤ人を抹殺するために、ナチスに密告電話をかけさせたこともある。他人の運命を動かし、あやつり、もてあそぶことに、彼らは自分たちの権勢を実感していた。その権勢は、「あの方」から与えられたものであり、与えてくれた人は絶対的な存在であったのに、当の本人が動揺をしめしたのである。これはいささかならず、見すごしがたいことであった。 「まあいずれにせよ、今回の事は終わった。慶賀《けいが》すべきだな」  これが単純な終わりでないことは、四人姉妹の面々は、よく承知していた。これは、ウィンストン・チャーチル風にいえば、「始まりの終わり」か「終わりのはじまり」か、どちらかであろう。どのような大国も、いつかは崩れ落ちる。 ローマも滅び、カルタゴも滅びた。四人姉妹《フォー・シスターズ》の権勢も栄華も、いつか灰となり、土に帰るであろう。  だが、まだ今日のところ、地球は四人姉妹《フォー・シスターズ》のものであった。あるように見えた。  チューリヒから東へ約六〇〇〇キロ、マラソン・コースにして一五〇個分ほど進むと、中国の広漠たる山岳地帯にぶつかる。世界でもっとも海から遠い地域である。北にタクラマカン砂漠、南にチベット高原をひかえた万年雪の山々の一角に、彼らはいた。三人の竜王を長兄のもとへとみちびいた者たちである。 「……結果は可であったが、どうにも、まどろっこしくていかんのう」 「一度にすべてが解決する、というわけにはいかぬよ。力づくで一夜にして事情を変える。まさに牛種のやりくちではないか。わしらは流れが逆行せぬよう、それだけを見張っておればよい」  例のように精神波での会話であった。 「ですけど、この夏に生じた変化の急なこと、とても悠然とは思えませんでした。漢鍾離《かんしょうり》さまや張果老《ちょうかうう》さま、短兵急《たんぺいきゅう》にと方針をお変えになったのがと思いましたが……」 「何の、わしらは相手のやりかたに応じただけじゃよ。牛種の手下の手下の、そのまた手下の手下どもが、無用なちょっかいさえ出さねば、竜王たちはいまごろまだ、それなりに平和な人の世の営《いとな》みをつづけておったろうさ」 「平和ね……」  精神波が笑いの波長をまじえた。転生した竜王たちの為人《ひととなり》を思って、微笑をさそわれたようであった。あのまま放置しておいても、彼らの生きかた、考えかたはかならず世の権力者たちと衝突し、波乱を生じたことだろう。 「あの夢の見せようも、いささか、あざとかったような気がいたしますそ。あれは呂洞賓《りょどうひん》どのがなされたことでしたな」 「ふふふ、いささか鮮明すぎたかな。だが、多少は、そもそもの淵源《えんげん》を見せておいてやらねば、竜王たちも、時の大河のなかで自分の位置をつかみかねるではないか」 「それはそうでしょうが、彼らに夢を見せることを楽しんでおいでのようにも思えましたぞ」 「やあ、そう老人を追求するものではないぞ、韓湘子《かんしょうし》」 「何が老人でござるか。このようなときだけ」 「太真王夫人はいかがいたしておりましょう。無事でおりましょうか」  精神波に男女のちがいがあるとすれば、そう問いかけたのは明らかに女性の精神波であった。 「わたしはあの娘をひいきにしておりますのに。あまり危険な目にあわせないでやって下さいまし。九天玄女から叱られてしまいます。お手やわらかに願いますよ」 「あの娘を危険な目にあわせるのは、さて、容易なことではあるまいよ。何仙姑《かせんこ》どの。ちゃんと従者もつけてあるし、ま、心配はいらぬさ……」  精神波の交換がやんだ。山の住人たちは、それぞれの内世界にもどり、瞑想に没入したようであった。       ㈼  アメリ力合衆国東南部、バージニア州の西部一帯に、建国以前からの未開の山岳森林地区がひろがっている。緯度は、日本でいえば関東地方の北部というあたりだ。日本のものとはやや種類が異なるが、松や杉が多く、熊や猪《いのしし》が出没する。  その山岳森林地区の一角に、鋭い銀色に光る大きな物体が、ごろんと転がっていた。ジャパニーズ・アーミーの輸送機である。日本の軍用機が、アメリカ東部までやってきたのは、これがはじめてであった。自力の飛行ではないにせよ、快挙というべきかもしれぬ。伝説のゼロ・ファイターでさえ不可能なことであったのだから。 「いや、まいったまいった、こんな場所に置いていかれるなんてなあ。画竜点晴《がりょうてんせい》を欠く、といっても、酒落《しゃれ》にもならんぜ」  ぼやいているのは水池《みずち》真彦《まさひこ》だが、たいして悲観しているわけでもない。健康で体力には自信があるし、仲間もいる。オリエンテーリングの難コースに来たつもりで、あせらず人里に出ればいいさ、と、ふてぶてしくかまえているのだ。 「頼りにしてるぜ、蜃海《しんかい》さん」  そういったのは虹川《にじかわ》である。  蜃海は共和学院在学当時、一年間休学して、アメリ力とカナダを、働きつつ旅行してまわった。英会話と地理にかけては、一行でもっとも頼りになる男だ。新聞記者としては、外信部から海外特派員、というコースをねらっていたのに、政府べったりになった社の方針を容赦なく批判したため、三〇歳前に整理部に飛ばされたのである。 「そうだな、まあ、おれがいなきゃ、お前さんたちは迷子《まいご》、というより、フロージみたいなもんだ。これからおれに対し、相応の敬意を払うように」 「蜃侮先生、ぼく、あなたを尊敬してます。これから先生と呼ばせて下さい」 「やめろ、気色悪い! うっかり冗談もいえやせん」  水池の腕を、蜃海が振り払ったので、茉理と虹川が笑いだした。松永君は、笑うかわりに、いそがしく尻尾を振った。  竜堂兄弟と離ればなれになり、遠い異国にいるというのに、茉理は、まったく不安を感じなかった。彼らもまた、茉理にとって、仲間なのだとわかっていた。 「では姫君、われら三銃士とダルタニャンがおともいたしますゆえ、竜王たちを探す旅に出立いたしましょうか」  うやうやしく水池が一礼した。その傍《かたわら》でダルタニャンが尻尾を振る。つまり松永君が、見習い銃士の役をおおせつかったわけだ。  四人と一匹が輸送機から降りようとすると、あわれっぽい声が背後から彼らを呼びとめた。日本国首相の声だった。 「君たち、君たち、私らを置いていくのかね。あまりにも無責任じゃないかとは思わないのかね」  汗と埃にまみれ、服装も乱れた初老の男が、輸送機の床にへたりこんだまま、うらめしげに、誘拐犯の一行を上目づかいに睨《にら》んでいる。虹川が舌打ちした。 「何いってるんだよ。解放してやろうっていうんだ。あんたらは自由だ。食糧だって半分は残してやってるんだから、どこでも好きなところへ行くんだな」 「こんなところへ放り出していかれたら、私はたいへんこまるんだよ。ええと、今日だったか明日だったかな、ゴルフ場を二ケ所と料亭を四ケ所まわらなきゃいけないんだからして……。アフター・ケアをきちんとしてくれねば困るのだよ」 「解放後の人質のアフター・ケアをやる誘拐犯が、どこにいるかっていうの!」 「私は二一世紀まで政権をにぎって、日本の国を未来へとミチビかねばならんのだよ。シュクシュクとして私に協力してくれたまえでないかね。私は君たちの首相で、君たちのお父さんお母さんよりずっとえらいんですよ。尊敬してたいせつにしないとバチがあたりますよ」 「たのもしい軍人さんが九人もついてるんだ。何とかなるだろう。ここは自由と正義の国だ。いずれ正義の味方が一個師団で駆けつけてくれるだろうよ」  もはや首相にも幹事長にも、何の関心もなかった。一行は、松永、水池、蜃海、茉理、虹川の順で、松や杉のおいしげった斜面を下りはじめた。レインジャー隊員たちと残るほうを選んだらしく、首相は追ってはこなかった。小一時間ほども歩きつづけ[#原本には「け」が入ってない]ると、下方に、棚《たな》状の広い草地が見えた。木々の間からそれを見た水池が、「ひと休みするか」と足を向けかけて停止した。後続の蜃海を振りむく。 「おれたちのなかに、とほうもなく行《おこ》ないの悪い奴がいると見えるぜ」 「自覚があってけっこうだ。で、何がお前さんをそうさせた?」  彼らが出会った災難は、自警団らしいグループだった。人数は三〇人ほどもいる。四輪駆動のバギーやランドクルーザー、トラックが停車している。ほぼ全員がライフルやショットガンで武装していた。水池たちの先入感かもしれないが、そろいもそろって悪相で、善意というものを感じさせない。  虹川が水池にささやいた。 「突破できないかな」 「やってみてもいいが、おれはひとりしか引き受けんからな。あと二九人は、お前さんひとりでかたづけてくれるか」 「なまけ者め」 「否定はせんが、そういう問題じゃないぞ」  不毛な会話を断《た》ちきったのは、獰猛《どうもう》な犬の咆哮《ほうこう》だった。ドーベルマン、ボクサー、シェパードなど数頭の犬が、茉理たち一行めがけて走り寄り、咆えかかったのだ。兇暴に咆えたてる犬は、かならず兇暴な飼主を持っているものである。つづいてあがった誰何《すいか》の声は、シェークスピアが墓の中で顔をしかめるにちがいないような下品で粗暴なひびきをおびていた。「山賊だな、ありゃあ」と、蜃海が断定した。  山狩り、治安維持を口実にした無法者の集団だ。二〇世紀の終末近くになっても、黒人狩りなどをやっているのかもしれない。夜明け前に輸送機が山上に置き去られたのを不審に思い、やってきたのだろうと思われた。  逃げる間もありはしない。たちまち四人の周囲は、三〇人の暴漢と、三〇丁の銃と、半ダースの猛犬にかこまれてしまった。野獣めいたひげとガラス玉めいた目の大男が、いやしげに舌なめずりして茉理の顔に銃口を擬《ぎ》した。 「いい女だぜ。さっき犯《や》ってやったニグロの女より、若くてぴちぴちしてやがる。東洋人か?」 「男とやるごとに、どんどんみがかれていくだろうぜ。おい、英語がわかるか? わからなくてもかまわねえぜ。お前をたっぷり(以下、青少年健全化委員会の意向により検閲削除《けんえつさくじょ》)してやらあ!」  茉理が、蜃海にむけて視線を動かした。 「何ていってるの?」 「知らないほうがいい。英語で聴いている分には耳が汚れるだけだが、翻訳したら感性が汚れる」 「やめて!」  茉理が叫んだのは、勇敢に茉理を守ろうとする松永君にむかって、ドーベルマンが襲いかかろうとしたからである。勇気だけでは、この場合どうしようもない。茉理がすばやく松永君を抱きあげると、ドーベルマンは肉食獣の目で茉理の咽喉《のど》を見あげた。  ふいに虹川が仲間の注意をうながした。 「空を見ろよ、妙だぞ」  水池と蜃海は、はじめて気づいた。空の陽がかげったように見えた。雲が出てきたのではない。森のなかから鳥が姿をあらわし、付近に集まりはじめたのである。奇妙なできごとだったが、茉理の身を山賊どもから守ることのほうが重要だった。とはいえ、三〇もの銃と半ダースの猛犬に包囲されていては、動くに動けぬ。両手をあげるよう脅かされたとき、虹川が蜃海をちらりと見た。 「ヒッチコックの『鳥』って映画、見たか」 「VTRでな」  映画論をぶつ間もなく、蜃海は、自警団員のライフルの銃身で腹を強く突かれて、身体を折ってしまった。山賊どもは傍若無人な会話で、彼らの計画を立てていた。四人を彼らの集会場所につれこみ、女は「みんなであらゆる方法で楽しみ」、男たちには犬をけしかけて噛《か》み裂かせ、あとですべての証拠を消してしまおうという悪辣《あくらつ》さだった。  突然だった。空全体が、はばたいたように見えた。ざあっと豪雨に似た音が森全体をつつんだと思うと、すさまじい悲鳴が自警団員のひとりのロからほとばしった。大きな鴉《からす》が彼の顔面に襲いかかり、太いくちばしと両肢の爪で、顔の肉をむしりとったのである。血が噴きあがり、男は散弾銃を放り出して鴉に両手でつかみかかろうとした。  そのときすでに、自警団員たちはひとり残らず鳥たちの猛攻にさらされていた。 「ひいっ、やめろ、来るなあ!」 「た、助けてくれえ!」  悲鳴は、鳥たちの鳴声と、はばたきの音にかき消された。二度、三度と銃声がとどろいたが、それは恐怖の反射行為でしかなかった。たちまち鳥たちは、発砲した男たちをつつみこみ、くちばしと爪と翼とで、強烈な攻撃をかけた。帽子が飛び、服地が裂け、皮膚から血が噴き出す。反撃しようもなかった。闘争心も底をついた。三分とたたぬうちに、現代の山賊どもは逃げ出した。血を流し、武器を捨て、重傷を負って地面に転がる仲間を見はなし、乗ってきた自動車も放り出して、泣きわめきながら二本の足で逃げ散っていった。  鳥たちはいっせいに高く舞いあがり、空の上でそれぞれの方向へ飛び去っていった。たちまち静寂が回復され、三人の男は顔を見あわせた。あきれたことに、三人とも、まったく無傷だった。 「いったい何ごとがおこったんだ」 「見てのとおりさ。鳥が助けてくれたらしい」 「おれたちを?」 「いや、おれたちはついで[#「ついで」に傍点]だな。助けたのは……たぶん、お姫さまだ」  三人の男は、六本の視線を鳥羽茉理に向けた。茉理は松永君を抱いたまま、やや呆然とたたずんでいたが、われに帰ったように、子犬を地面におろした。三人の男は彼女のもとに歩みよった。 「鳥羽君、君はいったい何者なんだ」  どう質問したらよいものか判断がつかず、ごく平凡に蜃海が尋ねると、茉理は、答えるに先だって前髪を指でかきあげた。 「さあ、咋日ぐらいまではわかっていたつもりだけど、ちょっと自信がなくなっちゃいました。わたしって、うーん、何者なのかしらね」  笑ったが、笑いをおさめると、茉理は、自分の姓について、ふと思いをめぐらした。彼女の姓は鳥羽で、いま彼女と仲間を救ってくれたのは羽族《うぞく》(鳥)の群だったのだ。ほんとうに、自分は何者なのだろう。 「とにかく、長居は無用らしいな、出かけよう」  虹川が仲間をうながした。たしかに、長居は無用だった。逃げ散った自警団の連中が、いつ引き返してくるかわからない。おそらく、さらに強力な火器と多くの人数をそろえて来るだろう。慄《ふる》えあがってそれぞれの家でベッドにもぐりこんでしまったかもしれないが、そうでないかもしれない。  四人は、自警団員が放り出していったライフルや拳銃をひろい集め、これも彼らが置き去りにした四輪駆動車に投げこんだ。水池は、倒れている自警団員のポケットから、財布や、保安官助手の身分証を拝借した。この場合、人道主義を標傍《ひょうぼう》しているような余裕はなかった。四人と一匹は四輪駆動車に乗りこみ、虹川がハンドルをにぎった。  こうして、彼らは、竜堂兄弟と再会するための旅に出たのである。旅路が、長くなるか短くなるかは、まだ予測がつかないことであった。       ㈽  アメリ力合衆国モンタナ州は、日本よりも広い面積の土地に二〇〇万人未満の住民しかいないという過疎地である。単に地価だけでいえば、東京の港区一区にも遠くおよばないだろう。氷河で名高いグレーシャー国立公園など、風光の美しい場所が多いので、そのうち、ハワイやオーストラリアで忌避された日本の観光資本や不動産業者が、濁流のようになだれこむかもしれない。  それはともかく、モンタナ州西北部のサンクリーク郊外に居住する、グラストンという一家は、評判の悪い家族だった。かなりの面積の森林と、製材とパルプの工場を所有し、裕福な生活を送っていたが、国立公園管理局の人々は、グラストン一家がアメリカとカナダの両国にまたがって悪質な密猟行為をおこなっているのではないか、とにらんでいた。二年前に、公園管理官が密猟監視中に「事故死」したことがあるが、これも彼らが手を汚した結果ではないかと思われていた。ただ、よくある話だが、物的証拠に欠け、生きた証人もいないため、彼らに手も足も出すことはできなかったのである。  七月末のある晴れた日、そのグラストン一家に、どうやら神の罰、あるいはインディアンの精霊の崇りが下ったらしく思われた。国立公園管理局の。パトロール・ジープが、林道をとぼとぼ歩いているグラストン一家四人の姿を発見したのである。四人とも、いつもの暴力自慢はどこへやら、かなりこっぴどくKOされたようすで、おまけにバンツひとつのあわれな姿だった。いつも四輪駆動のダブルキャブに乗り、銃と厚い財布を手離さない連中である。ジープから声をかけられた彼らは、後ろめたさと恥ずかしさのゆえか、逃げ出そうとしたが、結局、町の病院に収容され、郡保安官から事情をきかれた。  彼らは、国立公園内で自分たちが何をしていたか、という点にかけては、頑として口を開かなかった。だが、一家のなかでもおしゃべりな三男坊のジェフが美人の看護婦にぽろりと洩らしたところによると、「黒っぽい髪をした二、三人の裸のガキに襲われた。ありゃ人間じゃねえ、何か怪物が化けたもんだ」ということであった。ジェフの語ったことは、たわごと以上のものとは考えられなかった。おそらくグラストン一家は、他の密猟者のグループと出会って争いになり、敗れ去ったのであろう。敵方のグループは戦利品を手に入れて意気揚々と引きあげたにちがいない。グラストン一家は生命があっただけ幸運というものだ。それが郡保安官事務所や町の人々の、常識的な見解であった。もっとも、ジェフ・グラストンは小説的な想像力とは完全に無縁の存在であったから、「黒っぽい髪をした裸のガキ」とやらの存在にはそれなりの根拠があるのではないか、と考えた人もいる。ただ、グラストン一家は郡保安官の事情聴取に対して、まったく非協力的であり、もともと人望のない連中であったものだから、本気で「黒っぽい髪をした裸のガキ」を捜そうとする者はいなかった。  そのようなわけで、「グラストン一家の強盗致傷被害事件」は、あっさり未解決事件のファイルのなかに綴《と》じこめられ、べつに誰ひとり異議をとなえる者もなく、きれいに終結してしまったのであった。  むろん、グラストン一家をそういう目にあわせた犯人たちは、事件の真相を知っていたのだが。  モンタナ州は合衆国《ステーツ》北西部、ロッキー山脈から太平原へと移行する位置にある。西から東へと旅すると、巨大な重量感のある山岳を背負って、気づかないほどゆるやかな坂道を下りつづけることになる。いま、北緯四七度の北国の夕陽をあびて、一台のダブルキャブが、そのような旅に出たところだった。 「どこか町へ着いたらさ、身体にあう服を買っておくれよ」  後部座席で不平を鳴らしたのは竜堂終である。彼が着こんだ、サイズの大きすぎる野外作業服は、ジェフ・グラストンのものだった。 「竜になるのはいいんだけどさ、あとで服がないのが困るんだよな。竜のかっこうで服を探すわけにもいかないしさ」 「洋服屋を襲うドラゴン、という題材の絵は、美術史上にありませんものね」  助手席で竜堂続が笑った。彼の服は、上下のサイズはよいとして、横幅がだぶついている。グラストン一家は大男ぞろいだったので、どうにかサイズがあったのは運転席の始だけだ。終のとなりにすわった余など、服に埋もれてしまっている。 「でもさ、やっと始兄貴も変身できて、おれたちの後輩になれてよかったじゃない。あまりよくおぼえてないけど、青く光って、おれのつぎにかっこよかったぜ、後輩さん」 「以後よろしく、先輩、といっておくことにしようか」  選転席で、始はかるく苦笑した。  左目は完全にもとどおりになって、田母沢とかいう老人に傷つけられた痕跡は一ミクロンも見あたらない。竜の体組織再生能力は、驚異的なものであった。あの狂った老人が執念をいだいたのもわかるような気がする。といって、協力する義務など始たちにはまったくない。あの老人に、他人の生命と権利を一方的に奪う権利など、まったくなかったように。 「そうだ、茉理ちゃんは無事かなあ。それとあの三人のおもしろいおっさんたち」  終が口にした三人とは、むろん、虹川、蜃海、水池のことだが、彼ら三人はまだ二〇代であり、「おっさん」と呼ばれるのは、さぞ不本意であろう。始が奇妙な表情をしたので、助手席の続が、手早く事情を説明した。始は片手をハンドルからはずして、あごをなでた。 「虹川先輩たちがねえ。妙な縁だな」  人の世には、さまざまな関《かか》わりがあるものだ、と思う。つい一〇日前には、想像もしなかっ潅。自分たち兄弟四人が、広大な北アメリ力大陸で車を走らせていること。茉理が、共和学院の先輩たちといっしょに、やはり北アメリカのどこかにいることなど。  一日も早く茉理には再会したいが、彼女の身に重大な危機は、現在のところ、せまってないのではないか。なぜか、そう思う。危機がせまれば、どれほど遠く離れていても、それを感じとることができるのではないか、と、始はごく自然に確信していた。  それにしても、竜身に変化するということの意味を、始は考えずにいられない。封印が破れるということは、肉体的な解放だけでなく、精神的な解放でもあるのか。幾重にも膜がかかったような状態ではあるが、竜になったときの記憶を、始は脳の奥から引き出してみた。眼下に地球を見おろし、大気圏と宇宙との境界面に長大な身体を投げ出したときの、あの決美感。宇宙に満ちたエネルギーと、地球が発するパワーとが、全細胞になだれこんでくるかのようであった。自分が何をしたいのか、何をなすべきなのか、あのとき、たしかにわかっていた。  変化するとき、始は、自らの意思をその方向へとむけたのだ。あの狂った老人に無抵抗で斬りきざまれることは、崇高《すうこう》でも何でもなく、生命を冒漬《ぼうとく》することだったからだ。あの老人は何十年も前に自分の正当な権利を費《つか》いはたし、以後、他者の正当な権利を侵害しつづけることで生命を保っていたのである。  終が頭の後ろで両手の指を組み、口をとがらせた。 「でもさ、おれたちって、人類の敵にふさわしくないことをしちゃったんじゃないかな。核ミサイルを消してさ、人類を救っちまったんだぜ。これって単なる正義の味方じゃないか。あんまし好きくないなあ」  始はバックミラーのなかの弟に笑いかけた。 「ちがうそ、終、おれたちは人類を救ったんじゃない。地球が汚染されるのを防ぐ、その手伝いをしただけだ」 [#天野版挿絵 ]  ほんとうは、でしゃばりの極致だったのかもしれない。地球は人界であり、人間の世界である。人間だけの世界ではないが、この世界を管理し、調和された状態にたもつために、人間が責任を負《お》っているのだ。破壊と汚染は、人間によってこそ防がれ、あらためられるべきなのだ。それは地球をあずかる人間の義務であると同時に、権利でもある。ゴキブリでもドブネズミでもなく、人間だけが享受することができる権利だ。その権利を、自分たちは侵してしまったような気が、ふと始にはする。  自分たち竜種をふくめて、天界の住人たちは、人間たちにまさる何ものかを持っているのだろうか。ただ、より多くの知識と力を持っているだけで、人界の住人たちを支配し、指導できるものと、勝手に思いこんでいただけではないだろうか。 「余君は、すっかり眠りこんだみたいですね」  終によりかかって規則的な寝息をたてている余を、バックシートごしに見やり、続が微笑した。 「それにしても、兄さん、今度はいろいろとわかったみたいですね」 「まあ、いくつかのことはわかった。わかったように思う」  始の返事は用心ぶかい。続はくすりと笑った。彼の兄は、青竜の本体をあらわしたとき、豪毅《ごうき》にして果断《かだん》であるが、人身に帰ると、ときどき慎重ぶるのだ。 「夢に何度も出てきた牛種とは、ギリシア神話に登場する、あのミノタウロスみたいなものでしょうか」 「それもひとつの典型ではあるようだな。だが、おれが考えてるのは、むしろ旧約聖誓のほうなんだ」  さらにくわしく読んでみる必要があるが、旧約聖書の「エゼキエル書」に牛の顔を持った神が登場していたような記憶がある。その点を、始は口にし 「やはり旧約聖書に出てくるモーゼの神は、自分の力を誇示するために、一夜のうちに、罪もないエジプト人の赤ん坊を大量に殺した。この非寛容、残忍さ、恐怖による支配。こいつは、おれたちが夢のなかで知った牛種の特徴じゃなかったろうか」 「兄さんはもしかして……」 「いや、ちょっとちがう」  めずらしく先まわりして、始は、弟の言葉をさえぎった。モンタナ平原部の道は単調だ。その単調さが、このとき、ドライブしながら思考をめぐらせることを助けてくれる。 「キリスト教のことをお前はいおうとしてるんだろうが、キリスト教は一分派にすぎないんだ。殷周革命は三〇〇〇年以上も昔におこった。キリスト教より一〇〇〇年以上も早く」  ……始たちが見せられた夢では、天界の代理戦争の結果、殷《いん》が滅び、周がとってかわった。それによって牛種は、支配圏を、人界の半ばにとどめられたようだ。だが蚩尤《しゆう》が叫んだように、牛種は、人界全体の支配をあきらめなかったのではないか。どのように事を運んだのかは知らぬが、始たちが現に天界を去った竜王として地上にいるのは、代理戦争の後に何ごとかが生じたからであろう。  多神教の世界において、神々はしばしば批判や揶揄《やゆ》の対象になる。ギリシア神話の最高神たるゼウスは、好色で、場合によっては嘘もつき、妻のヘラにはまるで頭があがらない。ギリシアとトロヤの戦いでも、いろいろと手を出しはするが、結局、「運命の秤《はかり》」にさからうことはできないのだ。その力も神格も、巨大ではあるが制限されている。  ここにあるのは、たとえ超絶的な力を持つ存在であっても、けっして絶対視しないという考えかたである。「神は唯一であり絶対であり、その御業《みわざ》にけっして誤ちはない」という一神教の思想とはことなっている。  多神教はその大部分が自然発生したものである。だが、一神教のなかで、自然発生したものはない。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。それらは同一の根を持つ「聖典の教え」であり、明確な布教の意思を持って、地上に拡大されていった。教祖たちの強烈な使命感を見るがいい。彼らは唯一絶対神の忠実な使徒として、生涯を布教についやしたのである。 「もしかして、牛種とは、一神教の思想によって人類を精神的に支配しようとした奴らかもしれないな。殷周革命で敗れた後、一〇〇〇年も計画をめぐらして、やがてじわじわと文明をひろげ、地球を支配し……」  始はハンドルを切って、乱暴な対向車を回避した。 「いかん、いかん、先走りすぎる」  あわてて、始は頭を振った。結論を出すには、まだ判断材料がすくなすぎる。偏見や思いこみによって決めつけることは避けたい。ただ、いちおうの仮説をたてておくことは、そこを思考の出発点にして事実への道をさぐっていく第一歩になるのではあるが。  ふと、続が兄の機顔を見やった。 「兄さん、あのレディLという女は、どうしました?」 「死んだよ」  短く答えてから、続の視線を機顔に受けながら、始はつけ加えた。 「ひょっとしたら、彼女は、おれを助けてくれたのかもしれない」  助けてくれたのだ、と断言するよりも、ややあいまいにしておくほうが、レディLという女性の最斯にはふさわしいような気がする。始が自らを人間の肉体から解放することは、レディLがレディLを解放することにつながったのかもしれない。四人姉妹《フォー・シスターズ》と、彼らが支配する領域からの解放。  四人姉妹《フォー・シスターズ》か。バックミラーのなかで、始の眉が動いた。レディLとの奇妙なつきあいは終わったが、四人姉妹《フォー・シスターズ》との間には、何ら結着がついてはいなかった。竜泉郷のこと。竜珠すなわち如意宝珠《にょいほうじゅ》のこと。天界のこと。人界のこと。竜となる力をどうにか制御することができるようになった今後、これらのことにかならず結着をつけてやろうと始は静かに心を決していた。  ダブルキャブは四人の竜王を乗せて、モンタナの野を東へと走りつづける。  このとき彼らがカーラジオをつけていれば、つぎのような内容の、むろん英語のニュースを、何とか聴きわけることができたかもしれなかった。 「バージニア西部の山中で、ジャパニーズ・アーミーの標識をつけた輸送機と、一一人の男が発見されました。州軍の尋問に対し、そのなかのひとりは、しきりに| 日 本 国 首 相《ジャパニーズ・プライム・ミニスター》 だとくりかえしているそうで、日本大使館への照会がおこなわれております……」       ㈿  ……北海《ほっかい》黒竜王《こくりゅうおう》敖炎《ごうえん》、字《あざな》は季卿《きけい》が午睡の夢から覚《さ》めたとき、水晶宮は静まりかえっていた。無人の境のように思われるほどであった。敖炎は牀《しょう》(寝台)から起きあがり、青磁の水盤で顔を洗って、服を着かえた。部屋を出て、兄たちをさがす。大理石の床と壁、水晶の窓を持つこの宮殿は、竜族の本城として、少年にとってはあまりに宏壮であった。  東海《とうかい》青竜王《せいりゅうおう》敖広《ごうこう》、字は伯卿《はくけい》。南海《なんかい》紅竜王《こうりゅうおう》敖紹《ごうしょう》、字は仲卿《ちゅうけい》。西海《せいかい》白竜王《はくりゅうおう》敖閏《ごうじゅん》、字は叔卿《しゅくけい》。三人の兄は内院《なかにわ》にいた。大理石の卓をかこみ、榻《とう》(椅子)にすわって、何か談笑していたのだ。自分たちの家、それも奥まった内邸のなかであるから、王号にふさわしい色調の官服を着てはおらず、私服であった。小走りに駆けてくる末弟の姿を見て、彼らは立ちあがり、何ごとがあったかを問いかけた。 「夢を見ました」  息をはずませて、敖炎はそう告げた。 「また季卿が寝ぼけたのか」  すぐ上の兄、西海白竜王敖閏がからかう。さらに上の兄、南海紅竜王敖紹が、末弟の肩を抱くようにして榻にすわらせ、水晶碗にいれた甘い屠蘇酒をすすめた。それを飲むと、体内に残っていた眠気の残滓《ざんし》が完全に一掃されて、気分が落ち着き、整理される。敖紹が徴笑して末弟の顔をのぞきこんだ。 「どういう夢だったのです。こわい夢でしたか」 「いえ、とても楽しい夢でした。楽しくて長い、とても長い夢でした」  それだけいって、敖炎は沈黙した。少年竜王が見た夢は、あまりに膨大で、どのように話したらよいものか、すぐにはわからないほどだった。すべてを語るには、夢のなかですごした一三年の時間を、そのまま必要とするような気がした。 「私たちは人界に生まれていました。あの青い惑星に、人として生まれていたのです。現世と同じに、四人兄弟として生まれていました」  三人の兄が興味を持ってくれたようなので、敖炎はうれしくなり、何とか夢の内容を正しく表現しようとした。 「遠い未来か、はるかな過去か、それはわかりませんけど、ああ、とても楽しくて幸福だったのです。私たちは、自分たちが四海竜王だということを薄々とは知っていましたけど、でもそんなことはどうでもよくて、大きな街の大きな家で、仲よくいっしょに暮らしていました」 「叔卿にいじめられなかつたか」 「あ、伯卿|哥哥《あにじゃ》、またそんなことを。おれが季卿をいじめるわけはないのに」 「わかっているさ、本気にするな」  笑って敖閏の肩をたたくと、敖広は末弟を見なおした。 「そうか、四人いっしょだったか」 「はい」 「楽しかったですか、よかったですね」  青竜王敖広と紅竜王敖紹は、視線をかわしあった。翌日、天宮へ出頭せよとの勅命を受けている。四海竜王そろって、というだけで、出頭の理由はわからぬ。かるい不吉さを感じないわけではない。だが、四人そろってのことであれば、恐れるべき何物もないように思えるのだ。彼らは竜王であり、竜種の長であり、天界にあって敬意を払われる身であった。  北海黒竜王敖炎は、三人の兄たちにむかって、彼が見た夢の内容をあらためて語りはじめようとして 「それはほんとうに長い、そして楽しい夢で……」                              (了) [#改ページ]  この物語はあくまでフィクションであり、現実の事 件・団体・個人などとは無関係であることを、とくに お断わりしておきます。 [#改ページ] 第三回竜堂兄弟座談会 終 おわったあ! これで眠れる。家にも帰れるぞお。 続 何ですか、いまの絶叫は? 終 作者のタマシイの叫びだよ。考えてみると、おれたちのために、ずいぶんと苦労をかけたもんなあ。ゆっくり休ませてあげたいね。 続 終君、作者から何かもらったんですか? 終 そ、そういう疑惑を持つのはよくないと思う。あ、もらったといえばさあ、バレンタイン・デーでずいぶんたくさんチョコをもらったよな。お礼をいわなきゃ。 始 苦しいごまかしかただな。 余 でも、ほんとにたくさんいただいたよね。チョコだけでなくて、紅茶とかブランデー、それにタペストリーとか。 始 作者は「風の谷のナウシカ」のタペストリーを壁にかけて拝んでいたという証言があるぞ。 終 一咋年だったかな、雪ダルマを送ってきてくれたのは。みんなほんとにいろいろ考えてくれるよな。 続 さて、そこでお知らせです。バレンタインにプレゼントをお送り下さった方には、全員ホワイトデーのときに、ささやかなお返しをさせていただきました。グループで送って下さったところは、グループの代表の方に。リスト洩《も》れはないと思いますが、万が一、「チョコを贈ったのにお返しをもらってない」という方がいらっしゃいましたら、出版社あてにご連絡下さい。きちんと送らせていただきますから。 余 バレンタインだけじゃなくて、第三巻が出たあとも、たくさんお手紙をいただきました。ありがとうございます。 始 楽しいお手紙が多かったな。 終 赤ん坊を放り出して読んでます、というお母さんからのお手紙とか。 余 お母さんも赤ちゃんも元気でね。 終 おれみたいないい子に育ててねっ。 続 終君のうわごとはさておいて、第三巻で言及しました「七月二八日、笠松」消印の無記名の封書でずが、現在まだ何のご連絡もありません。ひきつづき保管してありますのでご連絡をどうぞ。 終 さて、何とか無事に第四巻も出たけどさ。 始 どこが無事だ。アメリ力にいくなんておれは一言も聞いてなかったぞ。 続 兄さんは、ほんとにご苦労さまでした。でも、第四巻で兄さんを変身させなかった ら、作者は袋だたきですものね。 余 始兄さん、かっこよかったよ。 終 おれ、不満。木竜ってナマズにちがいないと思ったのになあ。ちがうんでやんの。 始 何でおれが、お前の願望を満たすために、中性子爆弾をかかえこんだり、手術台で目を突かれたりしなきゃならんのだ。お前の予想とちがうからというんで、おれは変身を承知したんだぞ。 余 みんなでいっしょに竜になれたんだもの、よかったよ。 終 竜になるプロセスは書いてあったけど、竜から人間にもどるプロセスは書いてなかったよな。あれっていいのか? 続 何を書くかも大切ですけど、何を書かないかも小説では大切なことなんですよ。 終 続兄貴、作者から何かもらったのかよ。 続 終君といっしょにしないようにね。そもそも、始兄さんにしてもぼくにしても、能力のすべてがこれまでに描かれたわけじゃありませんからね。 始 第二部のお楽しみというところだな。 余 第二部やるの、やっぱり? 終 こりない人だなあ。 続 作者がですか、編集者がですか? 終 そりゃもちろんー (原因不明の音声中断) 始 それで、第五巻は予定どおり番外篇になるわけだな。 余 どんな内容になるの? この前の座談会のときに、ちょっと話をしたような気がするけど。 続 本篇のほうはこちらへ置いといて、ぼくたち四人が現代日本の架空の都市でカツヤクするんだそうですよ。 終 おれさ、最初「謎の転校生」役で登場するんだぜ。 続 ぼくは「謎の転校生の兄」です。 余 ぼくは「謎の転校生の弟」。 始 おれは「謎の転校生の保護者」で新任教師。 終 何でえ、四人の関係は、全然、設定が変わってないのか。おれ、始兄貴がその都市の影の支配者でさ、悪のかぎりをつくして、最後におれの手で倒される役だと思ってたのにな。 始 ほう、お前、番外篇でまで、こづかいに不自由したいらしいな。 終 ちっちっ、兄貴、その作戦はもう通用しないぜ。読者はみんな、おれの味方なんだから。「竜堂終君の財政危機を救うために現金書留を送る読者の会」って知ってるかい? 始 知らんな。 終 残念だけど、おれも知らない。うーん、世の中まちがってるな。 始 まちがってるのは、お前の了見だ! 続 まあまあ、兄さん。終君、おこづかいはともかく、番外篇には、君にあこがれる絶世の美少女が登場しますからね。 終 ほ、ほんと!? 嘘だろ? 続 嘘です。 終 ……。 始 うーん、身も蓋もないな。 終 お、おれの了見がまちがってるとしたら、完全に兄貴たちのせいだと思う。 続 始兄さんにさからうなんて、三〇〇〇年はやいですよ、反省なさい。 余 三〇〇〇年というと、ほら、殷周革命のことだけど、あれは歴史的事実なんでしょ? 始 事実だよ。「史記。殷本紀」と殷墟の発掘によって、歴史事実だとして確認された。紂王の話なんかは、伝説色が強いけど、紂という王がいて周王朝に滅ぼされたことは確かだ。 続 その「殷周革命」を小説化したのが「封神演義《ほうしんえんぎ》」ですね。 終 「演義」って、「歴史小説」って意味だよな。 余 「三国志演義」とか「隋唐《ずいとう》漬義」とかあるよね。 続 「封神演義」は、歴史としての正しさはどうなんです? 始 そりゃ、あてにはならんよ。殷周革命の時代に、騎馬隊なんて存在しないのに。作品中には続々出てくる、なんてことがあるしな。「封神演義」ってのは、中国の民間信仰に出てくる神々が、そもそもどうして神になったのか、殷周革命にからめて記してあるんだ。しかし、中国の人って、ほんと、リストをつくるのが好きだなあ。神さまのリストまで全部つくっちまうんだから。 余 今回、夢のなかにいろいろ神さまが出てきたよね。 終 どこまで根拠があるんだろう。 続 いちおう固有名詞に嘘はないそうです。 余 「封神演義」だと、東海竜王の名は「敖光」だよね。 始 「西遊記」では「敖広」だな。ごちらのほうを使ったんだ。定説があるわけじゃないから、これはどちらでもいいわけだろう。 続 第四巻に至って、ファンタジー色が濃くなってきたところで、ぼくたちはどこへいくんでしょうね。 余 まず茉理ちゃんたちと再会するんだよ。 終 竜泉郷だろ、如意宝珠だろ、その他いろいろ残ってるもんなあ。 始 ま、みんながんばって作者を楽にしてやろうや。 続 わざとらしい結論が出たところで、今回はお開きといたします。                          一九八九年三月一〇日 [#改ページ]  底本     創竜伝4 四兄弟脱出行 (天野版、CLUMP版)  出版社    株式会社 講談社  発行年月日  1989年4月5日 初版発行 (天野版)  入力者    ネギIRC